【全文掲載】「マリウポリの20日間」監督が命を賭けて取材を敢行した理由を明かす 5800字超の声明文公開

2024年4月26日 11:00


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「おそらく私はこの壇上で、この映画が作られなければ良かった、などと言う最初の監督になるだろう」

この発言は、第96回アカデミー賞授賞式の壇上で語られたものだ。言葉を紡いだのは、長編ドキュメンタリー映画賞を受賞した「マリウポリの20日間」の監督であり、ジャーナリストのミスティスラフ・チェルノフ。AP通信社のビデオジャーナリスト、そしてウクライナ職業写真家協会の会長でもある彼は、ウクライナ東部の出身で、2014年にAP通信に入社して以来、欧州やアジア、中東の主要な紛争、社会問題、環境危機を多数取材している。

長年の同僚であるエフゲニー・マロレトカと、ウクライナの戦争に関連した問題を取材、報道しているワシリーサ・ステパネンコの3人の報道チームで共にマリウポリ包囲戦の取材を行い、ロシアによるこの都市に対する攻撃の目撃者たちの証言を世界に伝えた。その様子を活写したのが、4月26日に公開を迎えた「マリウポリの20日間」だ。

このほど、チェルノフ監督から「マリウポリの20日間」劇場公開に寄せて届いた“STATEMENT(声明文)”が到着。静けさの中に強い怒りが滲んだ5800字超の文章によって、戦場の惨状を告白している。


【STATEMENT(声明文)】

ウクライナのロシア国境からわずか20マイルのハルキウ市で育った私は、10代の時に、学校のカリキュラムの一環として銃の操作法を学びました。当時の私は、ウクライナは友好国に囲まれているのだから、こんなことは無駄なことだと考えていました。

その後、私は、イラクやアフガニスタンの戦争、そして、係争地ナゴルノ・カラバフの取材を行い、現地の惨状を世界に伝えようと努めてきました。しかし、アメリカ、そしてヨーロッパ諸国が大使館職員をキーウ市から退避させ始め、故郷の町から国境を挟んだ真向いで、ロシア軍部隊が増強されていることを知った時、私の心に浮かんだのは「何てことだ、祖国よ」という思いでした。

開戦当初の数日間、ロシアは、私が20代の頃まで過ごしたハルキウの非常に大きな自由広場を爆撃しました。アゾフ海に面しているという理由から、ロシア軍がウクライナ東部の港湾都市マリウポリを戦略上重要な目標と見做すはずだと、私は確信しました。そこで、2月23日の夜、AP通信での長年の同僚でウクライナ人写真家のエフゲニー・マロレトカと共に、マリウポリに向かいました。

我々がマリウポリに到着したのは午前3時30分のことでした。その1時間後に戦争が始まったのです。

最初の数日間で、マリウポリの住民43万人の約4分の1が避難しました。しかし、戦争が近づいていると確信していた人はごく僅かで、大部分の人たちが、自らの判断の誤りに気付いた時にはもう手遅れだったのです。

ロシアは電気や水、食料の供給を徐々に遮断していき、最後に、携帯電話やラジオ、テレビ塔を使用不能にしました。マリウポリ市内にいた他の数人のジャーナリストたちは、完全に封鎖されて通信が途絶する前に脱出しました。

通信を遮断することはとても重要なことで、これにより2つの目的が達成されることになります。

第1の目的は、大混乱を生じさせること。何が起きているのかを知る手段が無くなり、人々は恐慌をきたす。当初、マリウポリが何故これほど早く崩壊したのか、私には理解できませんでしたが、今では、コミュニケーションが不在となったことがその原因だったのだと思います。

第2の目的は、刑事免責です。マリウポリから情報が発信されず、破壊された建造物や瀕死の子供たちの画像が無ければ、ロシア軍は何事も意のままにできてしまう。我々がいなかったとしたら、マリウポリの情報は皆無だったはずです。

それこそが、我々が目にしたものを、危険を冒してまで世界に発信し続けた理由であり、同時に、ロシアが激怒し、我々を追跡しようとした理由なのです。

私は、沈黙を破ることがこれほど重要だと感じたことはありませんでした。

瞬く間にマリウポリ市内は死で一杯になりました。2月27日、我々は、榴散弾に当たった少女を医師が救おうとする様子を目にしました。その少女は後に死亡しました。2人目、3人目も亡くなりました。救急車は、電話が機能せず出動の要請を受けられなくなり、爆撃を受けて破壊された通りを走行することもできなくなったため、負傷者の搬送を停止せざるを得ませんでした。医師たちは、死亡した人々を運び込む家族を撮影するよう我々に懇願し、減り続ける発電機の電力を我々のカメラに使わせてくれました。我々の都市マリウポリで何が起こっているのかを世界では誰も知らないでいるのだと、医師たちは嘆きました。

病院と周囲の家屋が砲撃を受け、我々のバンも窓が割れ、側面に穴が開き、タイヤがパンクしました。時として、我々は炎上する家屋を撮影するために飛び出し、爆発の中を走って戻ることもありました。

当時のマリウポリ市内には、通信ネットワークに安定して接続できる場所がまだ1ヶ所だけ残されていました。そこはバディヴェリニキウ通りにある略奪された食料品店の外で、我々は1日1回その場所へ赴き、階段の下にしゃがんで写真や動画を世界へとアップロードしていました。階段では身を守ることはできそうにありませんでしたが、屋外にいるよりは安全に感じられたのです。

その回線も3月3日には途絶えてしまい、病院の7階の窓から動画を送信しようとしているとき、そこから、マリウポリという堅実な中産階級の都市の最後の断片が砕け散る様子を目にしました。

ポート・シティのスーパーが侵攻を受けていることを聞きつけ、砲撃や機関銃の銃声の中、我々はそこへ向かいました。数十人もの人々が、電化製品や食料、衣類を満載したショッピングカートを押して走っていました。そのスーパーの屋根で砲弾が爆発し、私は店外の地面に投げ出されました。二度目の着弾を警戒し緊張していた私は、カメラが録画状態になっていなかったことで自分をひどく呪いました。私がいた場所のすぐ隣のアパートに砲弾がヒューッという恐ろしい音を立てて命中し、私は、身体を縮めて、交差点の角の陰に隠れました。

10代の若者が、オフィスチェアに電子機器を積んで運んでいました。「友人たちとそこにいたのですが、僕たちから10mの所に着弾しました」と、その少年は私に語り、「友人たちがどうなったのか、分からないんです」と続けました。我々が病院に戻ると、20分もしない内に負傷した人々が到着し始め、その内の数人は、ショッピングカートで運ばれて来ました。

誰しもが、戦争が終わるのはいつなのかを知りたがっていましたが、私は答えを知りませんでした。

ロシア軍の包囲を打ち破ってウクライナ軍がやって来るという噂が毎日のように流れましたが、誰も来ることはありませんでした。

この頃には、病院での死や路上の死体、集団墓地に押し込まれる数十の遺体など、あまりにも多くの死を見ていたので、私は深く考えることもなく、人々の死を撮影していました。

3月9日、空爆が2回あり、産科病院から煙が上るのが見えました。我々が到着した時、救急隊員たちはまだ瓦礫の中から血まみれになった妊婦を引き出そうとしているところでした。

ある日、外出禁止の開始時刻まで残り数分というときに、バッテリー不足によって、画像を送信しようにも接続できる回線が無くなる事態に陥りました。病院への爆撃のニュースをどうやって送信するかについて我々が話し合っていたのを聞いていた1人の警察官が、電源が有ってインターネット接続が可能な場所に我々を連れて行ってくれました。「このニュースは、この戦争の流れを変えるでしょう」と、その警察官は言いました。そのときすでに我々は、非常に多くの死者、そして死んでいった子供たちを撮影していたので、これ以上の死が何かを変え得るという警察官の考えが、私には理解できませんでした。

しかし、私は間違っていたのです。

送信を早く済ませるため、暗闇の中、動画ファイルを3分割し、携帯電話を3台並べて、アップロードを行いましたが、全てを完了するのには時間がかかり、外出禁止の開始時刻をはるかに越えてしまいました。砲撃は続いていましたが、市内で我々を護衛するよう命令された警察官たちは根気よく待ってくれていました。

その後、マリウポリの外の世界との接続は再び切断されてしまいました。外界から隔絶されていた為、我々の報道の信用を失墜させようとするロシアの偽情報キャンペーンが勢いを増していたことを我々は全く知りませんでした。ロンドンのロシア大使館が、AP通信の画像は捏造であり、妊婦は偽物だったとする2つのツイートをポストし、ロシアの国連大使は、安全保障理事会の会合でその画像を印刷したものを掲げ、産科病院への攻撃についての嘘を重ね続けました。

一方、マリウポリでは、戦争についての最新情報を求めて人々が我々の所に押し寄せてきていました。数多くの人々が、マリウポリ外の家族に生きていることを知らせるために自分を撮影して欲しいと私に言ってきました。

その時点で、マリウポリでは、ウクライナのラジオやテレビの電波は停止しており、唯一聴くことが可能なラジオでは、ウクライナ人たちがマリウポリを人質化して建物に銃撃を加え化学兵器を開発しているというロシアのよこしまな嘘が放送されていました。これはプロパガンダとしては非常に効果的で、自らの目で反証を見ているにも関わらず、この嘘を信じ込んでしまった市内の人たちもいたほどでした。

「マリウポリは包囲されている。武器を放棄せよ」

ソ連風のメッセージ放送が絶えず繰り返されていました。3月11日、AP通信のエディターが、産科病院への空爆で生き残った女性たちを探し出して、彼女たちが実在していることを証明できないかと電話をかけてきました。その時私は、あの妊婦の映像は、ロシア政府が反応せざるを得ないほど強力なものだったに違いないと察しました。

空爆された産科病院の女性たちを、最前線の病院で見つけ出しました。その病院には、新生児を抱いた女性も出産中の女性もいました。また、我々が撮影した女性が新生児を失い、その後自らの生命も失ったという事実も、そこで聞きました。

我々は7階に上がり、弱々しいインターネット回線を使って動画を送信しました。その時、病院の敷地沿いに次々と戦車が集まってくるのが見えました。その戦車には、この戦争におけるロシアの標章となっている「Z」の文字が書かれていました。

私はそこで、数十人の医師たちや数百人の患者たち、そして、我々が包囲されていることを知りました。

病院を守っていたウクライナ人兵士たちは姿を消し、病院の外へ危険を冒して様子を見に行った衛生兵は狙撃により死亡しました。これによって、食料や水、撮影機材を積んだ我々のバンには近づくことができなくなってしまったのです。

夜明けに突然、十数人の兵士たちが、「ジャーナリストたちは一体どこにいるんだ?」と、押し入って来ました。兵士たちの腕章はウクライナを示す青でしたが、彼らが偽装したロシア人である可能性を疑ってから、私は、自分がジャーナリストであることを告げるために一歩前に出ると、兵士たちは私に向かって、「貴方たちを外に連れ出すために来ました」と言いました。

手術室の壁は、建物外の砲撃や機関銃の銃声で揺れており、屋内に留まった方が安全なように思われましたが、ウクライナ兵たちは私たちを連れ出すよう命令を受けていました。

私たちは、匿ってくれていた医師たちや砲撃を受けた妊娠中の女性たち、他に行く場所が無く廊下で寝ていた人たちを置き去りにして、通りに飛び出しました。彼ら全てを後に残したことで、私は酷く辛い気持ちになりました。

道路や爆撃を受けたアパートの残骸を通り抜ける9分間、あるいは10分間は、永遠のように感じました。近くに砲弾が落ちると、地面に伏せ、一回の弾着から次までの時間を計測しながら走る我々の身体は緊張し、呼吸は止まったままのようでした。次々に襲ってくる衝撃波に胸を揺さぶられて、私の手は冷たくなっていました。

やっとの思いで通用門に到着すると、装甲車で暗い地下室に運ばれました。その時になって初めて、私たちは、ウクライナ側が兵士の命を危険に晒してまで私たちを病院から連れ出した理由を一人の警察官から告げられたのです。

「もしロシア側が貴方たちを捕えれば、貴方たちは、カメラの前に立たされて、今まで撮影したものは全て嘘だと言わされます」

「マリウポリでの貴方たちの尽力や取材の全てが無駄になってしまうのです」

滅びゆくマリウポリを世界に見せて欲しいと以前に私たちに懇願したその警察官は、今度は私たちにマリウポリから脱出するよう要請しました。彼は、マリウポリを去る準備をしている数千台の使い古された自動車の方に私たちを連れて行きました。それが3月15日のことです。生還できるのかどうかは分かりませんでした。我々は車に3人家族と共にすし詰めになったまま、市内から5km続く渋滞に巻き込まれました。約3万人が、その日、マリウポリから脱出をしようとしていたので、車の内部をロシア兵たちがじっくり検分する時間も無いほどの台数だったのです。皆不安を感じていたのでしょう。人々は、口論し、互いに叫び合っていました。その間もずっと軍用機が飛び空爆が行われ、地面は揺れ続けていました。

我々が通過したロシアの検問所は15ヶ所で、検問所にさしかかる度に、自動車の前部座席に座っていた母親は、我々に聞こえるほどの大声で猛烈な調子で祈っていました。

3番目、10番目、15番目の検問所には、武装したロシア兵が配置されており、マリウポリが生き残るかもしれないという私の希望は、検問所を通り過ぎて行くにつれて潰えて行きました。ウクライナ軍はマリウポリに到達するのに非常に広大な地域を突破しなければならないこと、そしてそんなことは不可能であることを、私はそこで理解しました。

15番目の検問所の兵士たちは、我々の車列全体にヘッドライトを消すように命じました。それは、道路沿いに置かれた武器や装備品を見えなくするためでした。ロシアの車両に白い塗料で書かれたZという文字だけは何とか視認できました。

16番目の検問所で停車すると、ウクライナ人の声が聞こえてきました。私は溢れ出すような安堵感に包まれ、前部座席に座っていた母親は泣き崩れました。

我々は脱出したのです。我々はマリウポリを最後に離れたジャーナリストでした。現在、マリウポリにジャーナリストは残っていません。我々が写真や動画を撮った人々の安否を知りたい、というメッセージが今でも殺到しています。彼らは、まるで我々が他人ではないかのように、我々が彼らを助けることが出来るかのように、切実で親密なメッセージを送ってくれます。

我々が脱出した後、ロシア軍が数百人もの人々が避難所にしていた劇場を空爆したときに、生存者について取材し、瓦礫の山の下に何時間も閉じ込められる経験とはどのようなものかを直接尋ねるにはどこへ行けば良いのか、私は正確に指し示す事ができます。私はその劇場のことも、その周囲の破壊された家屋のことも知っています。私は、劇場の瓦礫の下に閉じ込められている人々を知っているのです。

そして日曜日、約400人が避難していたマリウポリの芸術学校をロシアが爆撃したと、ウクライナ当局が発表しました。しかし、そこに行って撮影することは、私にはもうできないのです。


【「マリウポリの20日間」概要】

画像2

ロシアによるウクライナ侵攻開始からマリウポリ壊滅までの20日間を記録したドキュメンタリー。

2022年2月、ロシアがウクライナ東部ドネツク州の都市マリウポリへの侵攻を開始した。AP通信のウクライナ人記者ミスティスラフ・チェルノフは、取材のため仲間と共に現地へと向かう。ロシア軍の容赦ない攻撃により水や食糧の供給は途絶え、通信も遮断され、またたく間にマリウポリは孤立していく。海外メディアのほとんどが現地から撤退するなか、チェルノフたちはロシア軍に包囲された市内に留まり続け、戦火にさらされた人々の惨状を命がけで記録していく。やがて彼らは、滅びゆくマリウポリの姿と凄惨な現実を世界に伝えるため、つらい気持ちを抱きながらも市民たちを後に残し、ウクライナ軍の援護によって市内から決死の脱出を図る。

チェルノフが現地から配信したニュースや、彼の取材チームが撮影した戦時下のマリウポリ市内の映像をもとに映画として完成させた。・第96回アカデミー賞で長編ドキュメンタリー賞を受賞し、ウクライナ映画史上初のアカデミー賞受賞作となった。また、取材を敢行したAP通信にはピュリッツァー賞が授与されている。

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