劇場公開日 2023年1月20日

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「観る人に同情も共感も感動も求めない強烈な反ユダヤ主義、優性主義批判」ヒトラーのための虐殺会議 ブログ「地政学への知性」さんの映画レビュー(感想・評価)

5.0観る人に同情も共感も感動も求めない強烈な反ユダヤ主義、優性主義批判

2023年9月3日
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鑑賞方法:映画館

怖い

知的

このドイツ語の映画で、タイトルにあるヒトラーは登場しないし、現れる気配すらない。それでも登場人物の心を完全に支配しているヒトラーという圧倒的な存在感が終始作品の中に漂う。
さらにこのタイトルにあるユダヤ人虐殺(銃殺・毒殺)のシーンも連行のシーンなどの描写も全くない。それでもユダヤ人の強制収用や虐殺の残虐な実態が想像させられる。
この映画の舞台は、会議(ヴァンゼー会議)が開かれた邸宅(ヴァン湖畔)とその周辺数十メートル四方と驚くほど狭い地域だ。それでもユダヤ人問題と呼称する舞台の射程がヨーロッパ全土に広がっていたことを露わにする。
参加者は、ヒトラーを支える軍、親衛隊、主要省庁(国家保安部、内務省、外務省)の重鎮たちか。ユダヤ人迫害に対する良心の呵責が議論の中に垣間見られる程度のことを筆者は期待していた。しかしながらそんなせめてもの希望を見せることはなかった。若干ではあるが、前の大戦で祖国ドイツに貢献したユダヤ人に対する敬意が垣間見られた。その微かな人間味さえも、会議参加者ではなく、そうした気持ちを持つドイツ国民への考慮でしかなく、ユダヤ人に対するものではなかった。
会議は、戦争指導が必ずしもヒトラーの思い通りに進んでいる訳ではないことを伺わせる。実際に開催された1942年は東部戦線(独ソ戦)開戦後である。会議参加者の中からヒトラーに対する忠誠に動揺が見られることも期待したが、その期待も外される。程度の差はあれ、参加者の心は完全にヒトラーに支配されている。
この会議で静かながら意識的に強調されているのが書記の女性の存在である。参加者の発言を議事録として記録させる場面が再三入る。つまりこの女性は議事録の存在を象徴するものか。議事録はこの会議が歴史に刻まれたという証人になったが、参加者にとっては、この議事録を録っていることが会議におけるヒトラーを意識させる監視装置なのだ。会議のための静かな環境や豪華な食事が却ってその圧力の強さを引き立てる。全てが軍や親衛隊が経済的、心理的、時間的に効率的な方法で最終的解決を進めることに同意を取り付けるお膳立てなのである。
それでも参加者は、それぞれの異なる立場から時に穏やかに時に激しく議論をぶつけるが、欧州におけるユダヤ人問題の最終的解決 、すなわちユダヤ人を世界から完全に抹殺するという巨大な目標を達成することが、人類繁栄のために不可欠であり、その使命を誰も果たせていないし、果たそうとしないから、自分たちアーリア人(ドイツ人)が仕方なく実現に向けて行動していると思っている。彼らが議論しているのは、その遂行に当たって、さまざまな問題が噴出したからであって、円滑にそれぞれの管轄領域を相互に侵害せずに調整しているのである。
虐殺遂行に当たっての問題の捉え方も人道主義という言葉が出てくるが、遂行する軍や親衛隊のドイツ人の精神的苦痛に対する向けられるものであって、ユダヤ人に対して向けられてはいない。根底にあるのは揺るぎないドイツ人の優性思想とユダヤ人に対する差別意識だ。今もドイツにこうした思想を持つネオナチや極右と呼ばれる人たちがいる。こうした人たち目には、この会議は賞賛の対象として映ってしまうと危惧するのは、筆者の思い過ごしか。
この映画の舞台となる時期は、ヒトラーが出現した時代という特殊な環境が作り出したものだったと捉えるべきではないと筆者は考える。我々日本人のなかにも、周辺のアジアの国々とは日本は根本的に違うという考えはないか。かつて著作「学問のススメ」のなかで福澤諭吉は下記の有名な冒頭の主張から議論を展開する。
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」といえり。(中略)されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥どろとの相違あるに似たるはなんぞや。(中略)人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人げにんとなるなり。
ところが、著作「脱亜論」のなかでは次の主張をしている。
「我日本の國土は亞細亞の東邊に在りと雖ども其國民の精神は既に亞細亞の固陋を脫して西洋の文明に移りたり然るに爰に不幸なるは近隣に國あり一を支那と云ひ一を朝鮮と云ふ」
つまり、いち早く西欧化に舵を切った日本は、中国や朝鮮とは違う、と断じている。この脱亜論がその後の日本の歴史にどれほどの影響を与えたかについての議論は他に譲るものとするが、優性思想が隠れていないか。
技能実習生として来日して、低賃金で過酷な労働を強いられていたり、高度な技術を要する仕事をさせずその技術の習得をさせようとしなかったり。近い将来に人口減少が予想ではなく、確定しているにもかかわらず、移民や難民の受け入れに高いハードルがあり、変わらない現状の根底に日本人の純血の防衛という優性思想は隠れていないか。
グローバルな人の流れは今では当然のこととして捉えられるが、そもそも人の流れは古代からグローバルであった。我が国も例外ではなかった。ただ徳川幕府の間、極端にその流れを断ち切った例外的時期が近代にあったことも事実である。このインパクトが過大評価され「独自性」が強調されすぎて来なかったか。
筆者を含めて日本人は歴史の教育の中で仏教、儒教、律令制、稲作などなど、政治・思想・文化のあらゆる分野で多くのことが大陸からもたらされたことを教わってきた。それは間違いでは無かろう。かつて、人やモノの交流が一方的な流れであるかのように認識されてきたが、今は双方向であったという捉え方をする方が自然になってきている。すなわち、遣隋使、遣唐使その他の交易などで大陸に渡った人たちも現地の政治・思想・文化に影響を与えてきたはずだ、という捉え方だ。
アーリア人という遺伝子の優性を盲信していたナチス政権下のドイツ人と移民・難民というグローバルな人々の交流という現実を未だ受け入れることに躊躇している日本人は、本質的に異なると明確に断じることはできるのであろうか。

ブログ「地政学への知性」