カラーパープルのレビュー・感想・評価
全37件中、1~20件目を表示
いつかどこかで2回目を
冒頭から主人公が置かれるあまりにひどい状況
(父や夫からの暴力や理不尽な仕打ち)にショックを受け引きまくり、
明るめの美しいシーンに切り替わっても、心の中で上滑り。
映画を彩る数々の曲や俳優たちの歌・演技は素晴らしく、
苦しみばかりの人生だったセリーが裁縫に生きる道を見いだし、自立、成功していく様はある種のカタルシスをもたらしてくれるのだが・・・
キリスト教への信仰が全てのベースにあるのは分かるが、セリーが暴力夫を許して「色々あったけど神よ、ありがとう」的に皆で美しく歌い上げるラストは、困ったときの神頼み的感覚しか持ち合わせていない自分には消化しきれかった。
初見ではこの「自分なら許せない!」的フィルターに邪魔されたので
次回は願わくばフィルターを外して、もっと映画そのものに身をゆだねる形で鑑賞してみたい。
ミュージカル好きとしては難しい
東宝シネマズにて観賞。意外と早く上映館が少なくなってしまったなと思ったけど…
以前通ってたスタジオでニューヨーク土産にこの作品のTシャツもらってタイトル通り紫で気に行ってよく着てましたが肝心の話の内容や曲は知らず。
1985年にスピルバーグが映画化してるこの作品。1909年、ジョージア州に暮らす黒人の姉妹。横暴な父に虐待され姉は無理やり嫁がされた先でも夫に虐げられ逃げてきた妹は追い出され離れ離れに、妹からくる手紙も隠され続け酷い扱いをうける毎日。ともう冒頭だけでクズ男しか出てこなくて気分が塞ぎ込むのなんの…歌はすごくパワフルだけどこういうソウルフルなミュージカル作品との相性が良くないのでは?…と思いましたが出演者たちの歌というには憚られるほどの魂の叫びの数々…
キーパーソンは歌手のシュグ。彼女がヒロインのセリーを救うきっかけになるのだけど、やっぱり救いの手を差し伸べられるのって余裕ある人だということをすごく感じました。
時代が時代とはいえ、虐げられた黒人の先祖が切り開いてきた土地を守る男たちは、自分たちが虐げられたストレスを今度は妻や娘など弱いものにぶつける。辛い思いをした人が人に優しくできるなんて大嘘なんですよ、とそれなりに人間関係で苦労してきた私はその点に妙に共感してしまいました、ひねくれててごめんなさい(笑)
話がしんどい部分が多くスピルバーグ版見る気にはなれないけどやはり歌唱シーンが挟まれたことで色々削られてるエピソードがあるらしく納得。セリーの夫が突然改心するのもちょっと違和感で、人はそう簡単にしかもある程度の年齢いったら変わりませんよーとまた捻くれる(笑)
歌手のシェグの父親との和解シーンは美しかったですね。セリーも妹や子供にラストの復活祭で再会することができて救いがあり、まさにいのりの歌声がガンガン響いてきて、これがソウルフルなミュージカルにした意義なのかな…ミュージカルにすべき題材だというレビューもありその辺は好みの違いかな…
ヒロインのセリーが自身の裁縫という特技を活かして人生を切り拓くさまは素晴らしく、そこでパンツを作るというのもベタな展開だけどこの時代はスカートが当たり前だったので楽しいシーンだしやっぱりこういうファッションショー的なシーンをミュージカルに入れるってお約束なんですよね!
#カラーパープル #カラーパープルスピリット #映画レビュー #映画鑑賞 #映画好き#映画好きな人と繋がいたい #日比谷ミッドタウン #tohoシネマズ日比谷 #日比谷グルメ #日比谷シャンテ #スピルバーグ監督 #ミュージカル #ミュージカル映画 #アカデミー賞
クリスチャンの素晴らしい信仰の姿を描いた作品
●はじめに
『カラーパープル』(原題:The Color Purple)は、2023年制作のアメリカ合衆国のミュージカル映画。
アリス・ウォーカー原作のピューリッツァー賞に輝いた同名小説をブロードウェイでミュージカル化した作品を基にミュージカル映画としてリメイク。
1985年の映画版はスティーヴン・スピルバーグ監督の初めてのシリアスドラマでした。 第58回アカデミー賞で、作品賞、助演女優賞(2人)など、10部門(11人)で候補に挙がったのに、結果的には無冠に終わりましたが、この作品に巡り合い、スピルバーグの人間を見る温かい目に、深く感動したものでした。
このリメークにはスピルバーグも積極的に後押し、前作でソフィアを演じてアカデミー助演女優賞にノミネートされたオプラ・ウィンフリー、前作で音楽を担当したクインシー・ジョーンズの3人が製作に参加しています。
●ストーリー
1909年に始まり1947年までの38年間にわたるアメリカ版“大河ドラマ”横暴な父に虐待され、10代で望まぬ結婚を強いられた女性セリー(ジョンソン:ファンテイジア・バリーノ)。唯一の心の支えである妹のネティ(ハリー・ベイリー)とも離れ離れになり、不遇な日々を過ごしていました
女性の権利を一切認めないセリーの暴君の夫ミスター(コールマン・ドミンゴ)によって様々な虐待を受けながらも、たくましく生きていき、型破りな生き方の女性たちとの出会いや交流を通して自分の価値に目覚めたセリーは、不屈の精神で自らの人生を切り拓いていくのです。
やがて長い間消息の途絶えていた二人が、最後に夢の再会を果たすというもので、大筋においては前作と同じです。
●感想
前作のウーピー・ゴールドバーグに代わって今回セリーを演じるのはファンテイジア・バリーノ。ステージ版でもセリーを演じ、他の持ち歌でグラミー賞も獲得した歌唱力はすばらしいものでした。
一般的に、リメークが前作を超えることは少ないのですが、この作品は、ミュージカルという新しい要素が加わったことと、クリスチャン的には、前作よりも福音のメッセージがより明確に出ていることが特長です。わたしはクリスチャンではないのですが、同じ信仰を持つものとして、困難な人生に屈そうとせず、立ち向かっていくセリーの信仰の強さに、クリスチャンとしての信仰の素晴らしさを感じました。
クリスチャン映画の名作『祈りのちから』に匹敵する信仰がテーマの作品として、お勧めします。
●解説
・差別は黒人差別だけでなくあらゆる人間の中に“差別”は存在することを
アメリカの人種差別というと、まず白人の黒人に対するものと考えますが、この映画には、白人は市長夫人1人しか出てきません。あとは全て黒人で、黒人同士の間で、あからさまな差別と虐待が繰り広げられることに、正直驚かされます。端的に言えば、人種や性差や社会的身分などにかかわらず、あらゆる人間の中に“差別”は存在するということ。それは自分を他者より優れているとする心で、虐げられた黒人の中におこりがちなコンプレクスが、余計にセリーへのDVを激しくしていたのではないでしょうか。
・黒人社会の男尊女卑
本作では、この時代の黒人女性は奴隷のように扱われていたことが克明に描かれます。セリーの父親(実は育ての親)からは、セリーに近親相姦を受けて出産するものの、赤子の隔離と人身売買にされてしまうのです。そして子猫を譲るようにミスターのもとへ結婚を強要されるのでした。
それはほかの黒人女性でも大差なかったのです。
・40年間ソフィーに希望を灯し続けたものとは
約40年にわたる夫からのDV、暴力による差別・抑圧の中で、ソフィを耐え抜かせる力となったのは、一つは美しくも不屈の姉妹愛でした。夫のミスターが妹ネティからの手紙を姉セリーに隠して見せなかったため、40年間も音信不通だったのに、二人の姉妹愛は、決してなくなりならなかったのです。
もう一つは、親友シュグの励ましです。夫のミスターから、長年にわたって「ブスで不器用な料理下手で、何一つ取り柄のない女」と言われて虐待され、本当の自分を見失い、夢も希望もなくしていたセリーに、一人の人格を持った女性として、強くたくましく生きる勇気を与えてくれたのは、「あなたはすばらしい」と励まし続けたシュグの愛があったからでした。
また市長夫人の強制投獄で、すっかり気力を失ってしまったソフィアに再び高らかな笑いと生気を取り戻させたのは、男たちへのセリーの毅然とした態度でした。その源泉となったのはシュグの励ましの言葉があったからこそなのです。
人は、良き友があってこそ、逆境の中でも真の自分の存在価値を見いだし、そのさらなる追求を目指して生きる力を取り戻せるのものだと感じさせてくれました。
さらに、ソフィーは自分が苦しいときこそ、ゴスペルを歌い、主との一体感を深めて、自らを信仰の世界へと奮い立たせたのです。だから40年間一貫して、妹との再会を信じ、前向きに突き進むことができたのです。
・クリスチャンならではの和解と悔い改めの素晴らしいシーンも用意されています。
まずは牧師の父と放蕩娘のシュグが和解するところ。
今回は、教会の中での二人だけで、父のピアノで娘がゴスペルを歌い、娘は父の胸に涙ながらに顔をうずめる、というシーンになって、神父の父親と娘の赦しと和解を象徴する美しさを前作よりも際立たせていました。
・夫ミスターの回心
妻セリーが彼のもとを去ったあと、独りで作物を作っていたミスターの広大な畑に害虫が発生し、駆除のために全作物を燃やした彼は、収穫を全て失ってしまいます。そして絶望して土砂降りの雨の中を歩くうち、落雷の恐怖の中で、これは長年のセリーに対する自分の態度に対する神の怒りの裁きだと気づき、悔い改めるのでした。
彼は、泥の中に体をうずめながら、「改める!」と何度も絶叫するのです。その言葉は、クリスチャン的に言うなら「悔い改める」ということです。
彼は別人のような優しい男になります。そして、セリーの妹ネティの一家がアフリカから戻るための渡航費用を、自分の土地の一部を売って用立ててあげるのです。こうしてセリーは、40年ぶりに妹ネティと、また出産と共に取り上げられた2人の我が子との再会を果たします。
前作では、彼は、再会した姉妹の喜ぶ姿を遠くから眺め、立ち去るのですが、今回の彼は、洋装店を開いたセリーの店を訪れて、売り上げの足しにと派手なパンツを買うだけでなく、セリーたちの晩餐会にも顔を出し、妹一家の招待計画まで知らせます。ここは前作に比べてベタな感じがします。
それでも本作の監督は、多くの女性が重要な役割を果たす中で、1人、このミスターに、前作より大きな役割を担わせたと思うのです。
それは、どんなに極悪非道な人間でも、神の前に悔い改めれば、必ず人生を“やり直す”ことができることを語りたかったからでしよう。そして「真の悔い改めはその実を結ぶ(償いの行動が伴う)」という聖書の真理を、クリスチャンだけでなく全ての観客に、スクリーンでも明らかにしたかったに違いありません。わたし的にいえば、悪人こそ救われるという、「悪人正機説」なのです。
2 時間21分の映画を観終わってみると、人間一人一人の人生とは、まさに人生の問題集を説き明かしていく魂の修行のようなものだと思います。どんな苦難にも自らが解けないようなものは用意されておらず、どこからに答えが用意されているものです。そして、諦めずに苦難困難に立ち向かっていると、自分の守護霊や神さまもちゃんと助言を送ってくださっているものなのです。
映画の中で、前半では「♬神の御業が働く」と歌われ、ラストでは「♬神の御業が見える」と歌われます。苦しいことも、悲しいことも、全ての人間の営みの背後には、神の御業が人生の問題集のとおりになされているのです。そして人がひとたびそのことに気づくと、私たちには神様の御業がはっきりと見えるようになるのです。それは、まさしくこのみ言葉のとおりです。
その時、セリーも、ネティも、シュグも、ソフィアも、そして観ている私たちも、主を仰いできっとこう言うと思うのです。
「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました。」 (詩篇119:71)
クリスチャンではない人でも、いま逆境の渦中にある人なら、本作をご覧になって、人生の苦難の見方がガラリと変わる作品となることでしょう。
公開日 :2024年2月9日[1]
上映時間:141分
私は好きです
ミュージカル仕立てで華やかにも見えるけれど、ストーリー自体はかなり重め。
黒人女性・・・当時の差別ピラミッドの中でも一番下に位置するわけで、現代を生きる強め女性から見れば胸クソ悪いシーンも多いけれど、でも、それが当時の現実。
ずっと耐える側だった主人公セリーが、多くの友を得、さまざまなものを享受し、男性に「NO」と言い、自分の足で立つようになる。
時代の変化もあったと思う。けれど、それだけではない。
当初から、夫に殴られたら負けじと殴り返す妻もいたし、スターとして働く女もいた。
これは、彼女たちに憧れたり影響を受けたりした、セリー自身の成長物語。
こういう時代を経て、多くの女性が声を上げて作り出してくれた現代。当たり前と思わずもっと大切にせにゃ、と思う。
日本でも、女性の選挙権が認められたのはたしかこの頃だよね。
次の選挙、行こう。
圧巻のミュージカル!
映画館で予告を観てとても面白そうだったので、楽しみにしていました。(昔のカラーパープルは未視聴)
予告でミュージカルシーンが多く出ていたのでミュージカルを期待して観に行きました。
冒頭から圧巻のミュージカルで、とても楽しむことが出来ました!
ストーリーは暗かったのですが、ミュージカルシーンがありとても観やすかったです。
ラストはとても良かったです!
リメイク大成功ミュージカル!サントラ買う!
85年版とは全く違う映画!
陰惨なシーンはマイルドに、かつ分かりにくかったシーンを補完して、パワフルなミュージカル映画に仕上げた超良作!
今回はファンテイジア・バリーノ(セリー)とタラジ・P・ヘンソン(シャグ)の2人が主役!
シャグの登場時とハーポの酒場のミュージカルシーンは圧巻。2人で映画館で唄うシーンもセット凄。そしてクライマックスで、セリーがソロで自分の店で唄うシーンは歌詞と台詞がリンクして本当にグッときた。
そしてダニエル・ブルックスのソフィアも最高!
以下備忘録。85年版との違い
いっぱいあり過ぎるが、ミュージカルシーンが盛り沢山なため、ドラマは工夫してコンパクトにしている。
・基本的にセリーの若い頃は短く、ミスターと決別してからを長くしている
・ネティの回想、ナレーションは分かりやすく、尺は短くなる
・セリーがジュリア?に毎週面会に行っていたことが分かり、実は二人の絆が深まってたことが分かった(婦人と店に行く辛いシーンはカット)
・セリーの親父が実親じゃなかった下り、ミスターが移民局に掛け合ってた下りが分かりやすく。
・ミスター親父の水の件や、剃刀の件は、やっぱスピルバーグの焦らしが上手いなー、と実感。
ゴスペルっぽいシーンは迫力あって良かったけど、他のミュージカルシー...
ゴスペルっぽいシーンは迫力あって良かったけど、他のミュージカルシーンは無難に仕上げた感あるかなぁ。元のスピルバーグ監督作の方がよりシリアスでシンプルに心に響くのは仕方がないか。ラストでハリー・ベイリーを他の役者に変える必要ある?あの爺ぃ、ルイス・ゴセット・Jrだったのか!あとウーピーいたね?!
黒人女性の人権回復の歴史
黒人女性たちが、白人ではなく黒人男性から徹底的な支配を受ける弱さが描かれる。対抗できる力をもち合わせるが、白人女性から引き下ろされる場合もある。『大統領の執事の涙』のように、闘うよりも庇護者に守られて無難に過ごせた方が良さそうにも思える。アフリカの黒人たちも、当初尊厳を保ちながら、植民地支配に服属していく歴史も描かれていた。
自己主張できる自由の有難み
奴隷制が終了後の1900年代のアメリカジョージア州の黒人社会。
※性被害を被った事がある方は絶対に見ない方が良い作品。
されてきた虐げられた過去を繰り返してしまうからなのか、黒人男性が黒人女性を虐げることが横行している。低収入家庭ではよりひどい。
街中の食材店のオーナーにも関わらず、田舎のカウボーイに娘を売る父アルフォンソ。
しかも娘のセリーは母亡き後、そのアルフォンソの子を2度宿し、産んで、2人とも子を取り上げられている。セリーの妹ネティは賢いから学校の先生にすると言われているのに、扱いの違いに驚く。
女性は性のはけ口と家政婦にすぎない存在だから、妻を亡くし長女がターゲットになってしまったのか?
子供を売る商売のためなのか?
最初はよくわからない。
そこに来た、馬に乗った体たらくそうな男、ミスター。既に3人子がいて悪魔と呼ばれているが、妹ネティを嫁に欲しいとやって来るも拒まれる。代わりにセリーが牛と交換で嫁に出される。
あ、赤ん坊を売る商売のためではなく、娘を単なるはけ口として扱っていたのか、とわかる。
で、嫁いだ先の生活水準は更に落ち、何の愛情もなく、すでにいる3人の子の世話と家政婦とはけ口。
家に残ったネティは父アルフォンソのはけ口役とされそうになり、ミスターのところにいる姉を訪ねてくる。最初はネティを欲しかったミスターは下心があり住まわせることにするが、ネティははけ口にされる事をここでも拒んで、追い出されて姉妹は別れた。
そこから10年。セリーが世話をし続けたミスターの息子、ハーポが妻に連れてきた女性ソフィアは、セリーのように従順ではなく、自己主張もするしハーポに尽くさせようとする。
セリーの夫、ミスターも、街の教会の神父の娘で、酒場のブルース歌手シュグが本当は心に秘めた相手で、シュグが帰郷すると家に泊めなんとご飯まで作ろうとする。
この辺りで気付く。あれ?女性によって扱われ方が違う。セリーが望まぬ扱いを拒んでいないだけなのか?と。でも同時に思う。誰かが声高に理不尽を拒んでも、その皺寄せが誰かに行くだけなんだなと。
セリーはずっと皺寄せ。
ずっとその扱いだからそうされることに慣れてしまって、抜け出せない。親の愛を感じられずに育ち、愛し合って結婚してもいないし、妹とも生き別れ、愛情に飢えているのだが、夫も夫で父親支配の歪んだ愛の中で育って、心にはシュグがいる。
なので、好きでもない優しくない夫を振り向かせようという気持ちもセリーにはないから、おしゃれをする気もわかない。
亡き母との唯一の思い出、裁縫が心の支えで得意分野。こき使われているので料理も上手。
でも、それを褒められたり活かす場は来ない。
セリーが、何にも縛られず街中を夢中にさせるシュグの奔放な生き方に触れると、少しずつ心の声が出始める。この時点ではまだ、シュグの魅力は表面的で尻軽歌手な印象しかなく、女が自由になる=誰にでも足を開くことで生計を立てるに行き着くのかな?と思わされるが、シュグは地元から出てテネシー州メンフィスを拠点にできているので、人権無視のど田舎ジョージアより少しだけ進んだ世界を知っているのだ。
セリーにとって本音が出る分岐点になるところで、鼓動のような音が入り、こうして耐えて生きて繋がれてきた黒人の血がセリーの中でも脈々と生きて、繋がれて今があるのだなと感じる。
シュグが訪ねてきた時、セリーは産まれて初めて地元を抜け出し、夫を置いて、シュグと、メンフィスを訪ねる。産まれて初めて映画を観る。
初めて吸った自由の空気。
そして、シュグもまた神父の父親と確執があり、親の愛に飢えていた。シュグとセリーは何故かキス。
あれ、レズ同士なの?と思うが、そういうことを伝えたいのではなく、はけ口とされてきたセリーの女性としての機能も、本来自由なんだよと自覚させる場面なのかなと思った。心にある異性を愛そうが、同性を愛そうが、本来自由。
あとは、生い立ちに虐待等があると、欠如した愛を埋めるための同性愛があると聞いた事がある。そういうのも関係しているのかな?
シュグの実家は神父だから、異性愛は許されないはずだが、シュグも愛に飢えていて、心の通い合いなのか恋愛なのか、セリーもシュグも混同しているようにも見受けられた。実際、そこから10年近く後、シュグは男性と結婚して故郷に一時的に戻る。
シュグが再び故郷に戻るまでの10年近くも、セリーはずっと家の奴隷をこなして生きていた。
その間、夫の息子ハーポの嫁ソフィアは再婚し2児をもうけるも、白人市長夫人に背いて6年間の投獄。
あぁジョージアの中では先進的な女性像に見受けられた理不尽に逆らうソフィアでも、家の中ではそれを認めてくれる男性もちらほら出て来ても、白人による黒人支配はまだまだあるのだから、黒人×女性×貧困のセリーの圧倒的不利を思い知らされる。
ソフィアの牢獄にそこに毎週面会に尋ねたのもセリーだった。
10年前、シュグはセリーと、生き別れた妹ネティからの手紙を夫ミスターが隠していたのを見つける。
ネティはなんと、セリーが産んだ子達を養子にとった神父夫妻の元に逃げ込み、子供たちの世話をして過ごしていた。更には神父伝道で黒人のルーツアフリカの村を回っていた。後に白人支配が押し寄せて村を焼かれ、難民キャンプを周り、パスポートも焼かれ、アメリカに市民権の書類がないと帰国ができないとなるのだが。
シュグが戻るタイミングで、セリーは夫を殺しかねない怒りの限界を感じていた。シュグに着いてメンフィスに行くことを決意。
その時のセリーの溢れ出す暴言。最高だった。
それを聞いて、6年ぶりに笑えたソフィア。
シュグに着いて行ったらシュグの家で電話が鳴る。
出ると、父親が亡くなったと。
気乗りせずも地元に戻り教会の式に出たあと、実は父親は母親の再婚相手で、セリーは母の最初の夫の子だったと知らされる。
実家の食材店も、実はセリーの父親の物だったので、ゼリーが相続できると。
長年耐えて耐えて、ようやく心の声に従えて自由を手にしたセリー。
何がしたいか考えて、既製ズボン店をオープン。
かつての実家に戻り、心から笑いが湧いて来て、何がしたいか思いつく、このシーンが最も好きだった。
女性もズボンを履く時代が、やっとジョージアの片田舎まで浸透してきていた。
ズボン屋さんのドアの前でセリーが歌うシーンで、正直、客観的に見ないと辛いので、そういう時代だからなぁという目で観ていたにも関わらず、ボロボロ涙が出て来た。自立をできるまでに、思考も身体も心も体力も、全てを奪われて来たセリーが、夫にNOを言え立場をひっくり返せる時が来た。ガツガツ狙って手に入れてきたのでなく、少しの選択が出会いを変えタイミングを引き寄せて。
一方、セリーが出て行き、家事もできず威張れず虐げる相手もおらず、家業の畑は害虫騒ぎで、八方塞がりの夫。悔い改めて、土地を売り、セリーの妹ネティ達が帰国するための資金を密かに用立てる。
セリーからは、やり直すなんてありえず、友達ならなってあげてもいいよと言われるが。
そして迎えた感謝祭。セリーが招いてシュグ、ソフィア、ハーポ、ミスターと勢揃いのところに、妹ネティとかつてセリーが産んだ2人の子供とその子供達が帰国しやってくる。
あれ、神父夫婦はどこ行った?セリーの子供達2人とも、ネティが引き取って良いの?
お互いわかるうちに会いたいという手紙の一文で予想はしたが、帰国したネティ、別人!!!生き別れたネティがリトルマーメイドの子で印象が強かったから、驚き!
とにかく紆余曲折辛いことが沢山あったが、みんながまた集まった。
この輪こそが、セリーがお人好しで、切っても良い人間関係を切らずにいたからこそ、守れた、セリーの人生そのものであり、守れた人間関係であり、繋いだパープルの血である。
善い行いの黒人でなくても、黒人というだけで互いにbrotherと声を掛け合うのはよくわかる。
そうなっている根本原因のどこかに、必ず、黒人という属性がゆえに辛い思いをした理不尽がある。それが先祖にいて、だから生活水準や養育環境の空気に響いてしまったのか、本人が被っているのか、わからないが、辿れる程度の何代か上には、奴隷制が終わってもその影響を色濃く受けた人々がいる。その人達がどんなに理不尽でもどうにか命を繋いでくれて、今の黒人がいる事実がある。深い深い傷が必ずどこかにある。
作中で、前半のセリーの環境は周りが決めていく。抗えば暴力だし、逃げれば誰かがそれを負う。
今ならありえないレイプが当然で、周りの意識を変えていくなど到底無理。
ソフィアやシュグの振る舞いのように、そうよ抵抗しなくては!とは私も思えなかった。したくても後が怖すぎて、行く場もないからできない。
なのでセリーが言う、「生きている」それが何にも勝る価値なんだとよく理解できた。
どう生きるかを選べるどころか考えてよい自由すらなくても、どこかに希望を探して、いつかの自由を信じて生きるしかない。選べる範囲でごくごく小さな選択を少しずつするしかない。そう思わされた。
そして、女が男に支配されずに自由の息を吸うには、とにかく、手に職。男よりもできる何かを身に付けるしかない。1900年代からそうなんだなと思った。
家の建て方や作りは、ディズニーランドの至る所で見受けられるカントリーな感じ。トムソーヤにビッグサンダーにスプラッシュに、全部そんな雰囲気。
そういう粗野なスタイルが、小洒落た雰囲気に作り上げられて商業化されているが、実際には時代を反映した、低所得層の噛み潰している苦虫生活そのもの。酒場など、知識も教養も身につけようがなく畑仕事をするしか生きる術がない者達の発散場だから荒れ者が出る。だから、スプラッシュマウンテンが停止にするほど、アメリカでディズニーを快く思わない人がいるのもわかる。
黒人だけでなく、人権侵害や虐待の影響は、本当に本当に根深い。
そして、この作品を観て、過去の被害やトラウマが掘り起こされるなどなく、基本的人権がある中で生きてこられた有り難みを感じた。
ミュージカルに救われる辛い内容
1986年に公開された時のこの映画観たはずなのだけど、十代だったわたしにはあまりに辛すぎる内容だったということ以外細かい記憶が残ってない。当時、ETでスピルバーグを認識して、そのスピルバーグ監督の新作と観に行ってETとの違いに衝撃を受けたという記憶は残ってる。
さて、今作はミュージカル、ほんとにストーリーは辛すぎるのだけど、黒人社会のミュージカルとあって、ゴスペルやブルースのような音楽が全体を明るくしてる。
でもほんと、ストーリーは辛い...
新しいアプローチで作られた現代版カラーパープル
ザ・ミュージカル映画!
どのナンバーも素晴らしく、実際にブロードウェイの舞台に立っているファンテイジア・バリーノをはじめとした、実力あるキャストたちの歌声と存在感はさすがと言えます。
魅力的な楽曲と圧巻の歌声への感動を加味しての評価です。
事前にスピルバーグ版を視聴していた事もあり、ストーリー性に関しては正直そちらに軍配が上がるなと感じてしまいました。
性的虐待や暴力、男女・人種差別描写、それらによる登場人物たちの痛みや苦しみに対する解像度や重みの比が違うなという印象は否めません。
結末に関しても個人的には前作の方がしっくりきました。
しかし、今作はあくまで舞台版を脚色したミュージカル映画。
頻繁にミュージカルを観劇する立場からすると、実際に舞台上で演じられている作品の様な場面展開にはテンポ感の良さを感じましたし、小説ベースの作品とはアプローチが異なるのも納得できます。
演者の実力ある歌唱によってストーリーが補完されている部分も多く、作品が伝えたい言葉やメッセージを心震えるような歌声でもって感じることができるという点では、ミュージカル映画としては正解だと感じました。
(ミュージカルに不慣れな方からすると、逆にそれらが不自然に感じられるかもしれませんが…)
どのキャストも素晴らしかったのですが、個人的にはダニエル・ブルックス演じるソフィアの存在感が抜群でした。
彼女が歌う ”Hell No!” の素晴らしさで一気に心を鷲掴みにされましたし、スクリーンだけでなく実際にブロードウェイの板の上で歌う彼女をこの目で観たかった!と、強く思わされました。
ソフィアという女性の芯の強さを持ってしても折れてしまう程の、差別と現実。それを経験しても尚、再び強さを取り戻して蘇った彼女の生き様は、簡単に真似できるものではありません。
セリーが強さを顕にした食卓のシーンで、ソフィアがセリーの事を神だと思ったと告げますが、前作同様に、このシーンでは涙が止まりませんでした。
ソフィアという女性を見事に演じきったたダニエル・ブルックスに拍手を送ります。
主人公セリーを演じたファンテイジア・バリーノも素晴らしかったです。
セリーは一見するととても弱い存在に思えますが、決してそうではなくて、あの過酷な環境で苦しみながらも生き続けるだけの強さを持っている女性なのですよね。それを表に出せるだけの勇気と覚悟が、まだ持てていなかっただけ。
そんなセリーが、ソフィアやシュグといったタイプの違う女性たちの強さに影響を受け確実に変化していく様が、説得力のある演技と歌声で表現されていました。
生まれ変わった人生を美しい笑顔で伸びやかに歌い上げる “I’m here” は、涙無しには観られませんでした。この曲を歌うのが、自分の努力によって手に入れた場所というのがまた良いですよね。
ラストはミュージカルらしいハッピーエンド。
これまでの経緯を思えば、セリーがミスターという人間を赦す事は並大抵の努力では無理であろうと感じてしまいます。
しかし、神は人間に ”愛と赦し” を与える存在なのです。
大雨の夜に畑に倒れたミスターは、神に赦しを乞い、叫びます。目覚めた彼が手にしたあの一通の手紙は、まさしく神からの贖罪の恵みであったのではないかと感じます。それを正しく受け取り行動した彼を、神はその愛でもって赦されたのではないでしょうか。
そして、そんな彼を神のように広い心によって赦したセリーの元へ、最愛の妹が子供たちと共に戻って来るのです。
ソフィアがセリーの中に神を見たと言った言葉が、ここでも思い出されました。
“あなたのことを考えなかった日はない”
“私の魂はあなたのおかげで乗り越えられた”
優しく力強い歌声による “SUPERPOWER (I)” と共に、セリーの半生が映し出されるエンディングがまた素敵でした。
キルトのような鮮やかなイラストでダイジェストのように流れる彼女の半生は、裁縫という武器で人生を立て直したセリーが、これまで必死に紡いできた生きた証なのですよね。
自分の中の神と和解し、これまでの痛みや苦しみを赦し、手放したセリーが、それらを思い浮かべながら歌っているように感じられました。
前作でソフィアを演じたオプラ・ウィンフリーと監督のスティーヴン・スピルバーグに加え、音楽を手がけていたクインシー・ジョーンズが製作総指揮として参加。主演を演じていたウーピー・ゴールドバーグのカメオ出演もあり、前作へのリスペクトを感じつつも全く新しいアプローチで作られた現代版カラーパープルでした。
0.01%の幸せとも呼べないくらいの幸せ
酷い境遇だ。
でも、生きてさえいれば幸せが訪れるって事なのだろうか…とても不可解だ。
おそらく10代から話しは始まって、その時点で子供を産んでて、更に孕ってる。産まれた子供とは、直後に引き離される。ろくでもない男に嫁がされ、DV以上の事が続く。家の中で人権など認められてないような扱いだ。その旦那は、シンガーに入れ上げ、その世話をやらせる始末。
…そういう時代だったのだろう。
事実上の奴隷制度や人種差別が大手を振って通りを闊歩してる。
まるで生き地獄だ。
そんな彼女も晩年になって幸せを掴むのだけど…生き別れた妹と再会し、子供にも会い、孫にも出会う。自分に地獄を味合わせた元夫とも笑い合える関係だったりする。
生きてさえいれば、報われる時は必ずくるって事なんだろうか?まぁ生きてるだけでも駄目なのだろうけど。
最後の唄だけに何故かウルっとする。それ以外の時間は早く終われと思ってた。
つまり、俺には立ち去る選択肢があって現実ではない。でも彼女は逃げられない。
オリジナルの公開当初はもっと肌感が強い時代でもあったのだろうと思う。
アレが繰り返される事はないだろうとは思うけど、露骨てはなく水面下では行われてる節もある現代にうんざりもする。
99%の不幸の中、訪れる1%の些細な幸せがあれば、人は生きていけるのだろうか。
彼女は常に絶望と隣り合わせにいる。そんな中でも生きる糧を見出す。妹の存在だったり、友人だったり。まるで不幸が当たり前だから、慣れきってしまってるようにも見える。
時代に殺されかけそうにもなるのだろうが、ある意味強い。
神の御心のままになんて言葉が頻繁に出てくるけれど、それを隷従とか盲従に捉えてしまうのは俺の奢りなんだろうな。
晩年ではあるけれど、彼女の我慢が報われて良かったと思う。
信じ続ける女性
1900年代初頭から中期のアメリカ社会における黒人女性の置かれてる立場を主人公の目を通して描く。
生きづらい時代の中で虐げられる彼女の目を通し、妹を信じ仲間を信じ生きる様がとても情熱的に描かれている。
またその情熱を歌に乗せることで、その想いがストレートに心に響いてきた。
重厚なドラマのミュージカルとしても楽しめた。
生きる活力をもらえる
ミュージカルシーンが歌・踊りともに華やかでとても良かったです。黒人差別や女性差別要素できつくなってくるときもありましたが、ミュージカルで気分を持ち直すことができました。
登場人物全員に人間味があって、一生懸命に生きる彼らの姿に感銘を受けました。人生は理不尽の連続だけど、その中でも希望を失わず戦い続けることが大事だと思わされました。
印象に残ったのは、ミスター(セリーの夫)の変化です。セリーに暴力をふるいひどい扱いをしていた彼でしたが、セリーが出て行ってから反省して最終的にはセリーと和解して友人になっていたのが驚きでした。長い間父親に男尊女卑思考を刷り込まれていたのに考えを変えることができたミスターもすごいですが、それを受け入れたセリーもすごいと思いました。いつでも人は変われるよ、というメッセージを感じました。
私は生きている
スピルバーグ監督のオリジナル版は、冒頭からセリーが背負わされる過酷な運命が容赦なく突きつけられるので、観ていてとても心が重くなった。
その分、今回のミュージカル版は少しファンタジーの要素が入ったために、そこまで憂鬱な気分にはならなかった。
特に前半はセリーとネティー姉妹の絆が強く印象づけられる。
利発で垢抜けた妹のネティーとは対照的に、セリーは内気で頼りなく地味な存在だ。
しかし物語が進むうちにセリーが忍耐強く、慈悲深く、実はとても聡明な女性であることが分かってくる。
大まかな筋はオリジナル版と同じだが、ミュージカル版はより逆境に抗い、自立していく女性の強さにフォーカスが当てられた作品だと感じた。
ただ、ひとつひとつのシーンのドラマティックさではオリジナル版の方が勝っていると思った。
個人的にはとてもミュージカル向きの作品だと思っていたが、なぜか歌唱シーンもダンスナンバーもあまり印象に残らなかった。
キャラクターの魅力もオリジナル版に比べて乏しいとも感じた。
ただオリジナル版よりもセリーがありのままの自分を受け入れ、自分の生きる道を見出していくまでの過程がとても丁寧に描かれているのは良かった。
散々に醜いと言われ続けてきたセリーが、初めて自分に対して自分は美しいのだと認めるシーンは感動的だ。
そしてミスターのキャラクターも後半になって印象に残った。
ダニー・グローバーが演じたオリジナル版のミスターは、やはり非道い奴ではあるのだが、どこか不器用で憎めない部分もあった。
一方、こちらのコールマン・ドミンゴ演じるミスターはどこまでも冷血で擁護できる要素がひとつもない。
しかし、彼は自分が孤独になって初めて自分がセリーに対して行った仕打ちの残酷さを思い知る。
オリジナル版ではさらりとしか描かれなかったが、彼はセリーへの償いのためにネティーを呼び戻そうと働きかける。
ミスターがセリーの洋品店を訪れ、絶対似合わない派手なパンツを買うシーンも印象的だった。
改めてスピルバーグ監督の構成の上手さを実感させられはしたものの、今の時代に必要な要素を持った『カラー・パープル』であるとも感じた。
罪のないものだけが石を投げよ
冒頭から見ているのが辛い映画でした。子を産んだらすかさず取り上げられるって、本当にそんな時代があったのか。金で取引されて、怒鳴られ殴られ働き通し。力で勝る男の天下で、女性には過酷な時代。恐らく、時代を遡ればもっと過酷だったのでしょう。吉川英治氏の三国志では、劉備に自分の女房の肉を食わせるという「美談」があったのだから(決して吉川氏の創作ではなく、注釈入りで紹介されたエピソードでしたが)。兎に角、古くから続く残酷歴史の一部と思えば、そこまでは驚かなかったのですが。
そして、殴り返して解決? 本当は当然の姿である家族団らんエンドって、ハッピーに見えて「当たり前の姿じゃないか」と思わなくもない。それほど過酷な目にあったということですが、それに対して怒りを覚えなくもない。
では、加害者側である旦那(?)の方はどうか。実はあれらの抑圧的な態度は、親や周囲の環境から受け継いだ当たり前の振る舞いだったのかと思います。そんな時代だからこそ、そうして嫁にも勝ち気で生きてきた。自分が家を仕切っているのだ、云うことを聞かなければ躾けで正す、当然だろう? と、悪びれもなく云ったでしょう。本当に悪いことをしていると思ってないのでしょう。で、女房から殴り返されて思うことは「なんで?」だったのでは。店から追い出されて泥だらけになって反省したように見えましたが、彼もまた、時代に躾けられて弱っただけではないか。本当に自分が悪だと理解できたかどうか、判ったものではない。
何が気になると云って、この映画を見ている自分自身が本当は悪人じゃないかと、そう振り返るべきなのかと悩んでしまったこと。誰かに接する上で、それが何も被害を及ぼしてないかどうか。この映画の彼のように、時代に乗り遅れた悪人ではないだろうか、等々。いろいろ悩まされる映画ではありました。
スピルバーグ監督の前作は見ていないです。ミュージカルにしたということで、躍動感溢れる映画でした。やはり黒人で揃えたミュージカルは凄いですね。他にダイアナ・ロスやマイケル・ジャクソンの出演した、黒人版オズの魔法使い「THE WIZ」がお気に入りです。他、「ブルース・ブラザーズ」のジェームズ・ブラウンが歌い黒人達が踊るシーンなんかも凄い。
ただし黒人音楽、ブラック・ミュージックから発祥したブルースやジャズなんかも奴隷制度や人種差別の苦難の歴史と共に在ったことを考えると、世の中、辛いことが無いといけないのかと、なんとも悩ましく思えてならないです。
もう一度云いますが、スピルバーグ監督の前作は観ていないです。何故なら、良い映画ですが、観れば辛い想いをすることが、観る前から判っていたような気がするから。
お父さん二人、旦那が嫌いすぎる
男尊女卑の時代に本人の意思もなく嫁ぎ、世話を焼く。
他の登場人物は自らの考えがあると歌い出すが、主人公は終盤になってやっと自らの歌を歌う。
自分のお父さんは本当のお父さんではないし、夫の父も古い考えで女性のことを貶す。そんな二人に人生を狂わされたと思うと苛立つ。そして旦那はあれだけ主人公に酷いことをしておきながら、侘びながらも主人公の職場に訪れるし、平然な顔して主人公の復活祭に参加する。主人公が許したことを表現したのだと思うけれど、もし自分だったら絶対許せない。
歌やダンスは圧巻だし、歌詞で気持ちを最大限表現していたのはとても素敵だった。
あの花は何色
『カラーパープル』
ミュージカルシーンも良いのだがキャストの演技が本当に凄い。演技バトルが凄まじい。
あるキャラクターが本当に酷いことになってその姿が本当に観ていて辛くて痛々しかった。
主演のファンテイジアも見事に演じ切っていて素晴らしい。
もっとTHEミュージカルに出来るっちゃできるんだよね
観終わった後に
あれミュージカル映画?って感じ
歌もたくさんあって、でもストレートプレイ部分が
印象が強くさせる
それだけお芝居も負けていない
あの白人ババア、ムカつく〜っ‼️
とてもよかった
昔、映画館でスピルバーグ監督版を見たが、特に興味のあるテーマでなくあまり面白くなかった。映画のラストで妹からの手紙がブワーッと出てきたような記憶があるが今回見たら途中で手紙を発見している。もう一回見て確認したいとは思わない。
音楽が素晴らしくて、理不尽に屈してはならないという強烈なメッセージに鼓舞される。しかし終盤、一方で寛容の精神も大切だと説く。理不尽は許してはならないが、相手を全面的に否定するのではなく許すことも確かに大切だ。
男たちが本当にドクズだ。
神様との対話
1985年版は、「そんな映画あったかも…」程度にしか覚えてないので、ほぼ初見で全く比べられないのだけど、まあ良かった。
人種差別が中心の話なのかな、と思ってたけど、人種差別とか性差別とかそういうことじゃなく(もちろんそういうのが背景にありつつも)、主人公セリーが自分自身の尊厳を取り戻していく個人の物語だという感じがした。
世の理不尽・無情に対して、「耐える」「従う」という処世術しか選択肢をもてなかったセリーが、様々な「自分の尊厳を守ることを第一に考える」たくましい女性たちとの出会いを通して、精神的な成長を遂げていくところに拍手を送りたくなり、自分自身も勇気づけられる。
残酷な人生に対して、神様を呪うセリーに対して、シャグが「それは神様のせいじゃない。人のせい」と言うシーンが印象的。それまでセリーは、自分の不遇を、神様のせいにしていた。そうやって納得しようとしてきた。でも、自分の人生は自分の意志で変えていかなければならない、神様が自分を愛してくれているように、自分も自分を愛さなければならない、と気づいた瞬間だと思う。
セリーや他の人々の、信仰や神様との関係性が変化していくところが面白いと思う。キリスト教信仰とはどういうものなのかよく分かる。
「この人は絶対に変わることがないだろうな」と思えるミスターも、神様との対話によって、「男性は女性を支配するべき」という父親から植え付けられた呪いから解放されることができた。
多様性に配慮しすぎて不自然な配役やストーリーになることが昨今よく批判されているけど、こういう必然性のある映画を作ることが本来の王道のやり方なんじゃないかと思う。ブラックパンサーもそういうことでヒットしたんじゃないかな。
がっつりミュージカルだったけど、正直言って歌やダンスはそんな印象に残らなかった。「ラ・ラ・ランド」とか「グレイテスト・ショーマン」とかは良かったって思ったんで、全くそういう感性が自分にないとは思わないんだけどなー。
「カラーパープル」というタイトルは、神様の作った一番美しい、紫という色、という意味だけでなく、有色人種(people of color)という意味もかけてあるのかな? 知らんけど。
全37件中、1~20件目を表示