劇場公開日 2021年12月17日

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「弱くもしたたか、不思議なサバイバル人生。ひとりの老人の再生をかけた思い出巡礼の旅を描く。」世界で一番美しい少年 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

3.5弱くもしたたか、不思議なサバイバル人生。ひとりの老人の再生をかけた思い出巡礼の旅を描く。

2022年1月26日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

もうすぐ終映ってことで、慌てて行ってきた。
ルキノ・ヴィスコンティに『ベニスに死す』で見出された世紀の美少年ビョルン・アンドレセンの、「その後」の人生を描くドキュメンタリー。
ドキュメンタリーとはいいながら、66歳になった当の本人がのべつ登場して、かつての想い出の地を巡礼しながら、自分でナレーションも引き受けている。
ある種、数十年ぶりに「主演」を果たした「私小説」映画としての色が濃い。

僕にとって『ベニスに死す』は大切な映画だし、全作観た後期ヴィスコンティ作品のなかでも、『家族の肖像』と『地獄に堕ちた勇者ども』の次くらいには好きな映画だ。
あれはホモセクシャルの映画というよりは、「老い」への底知れぬ惧れを美学的に描いた作品であり、主人公は死の予兆のなかで「若さの美」に憧れ、身を焦がす。それがゆえに相手は「同性」=「少年」でなければならない、というロジックの映画である。
その美の象徴、タジオとして受肉し、映画に君臨したのが、ビョルン・アンドレセンだった。

僕は正直、ビョルン・アンドレセンのことをあまり美少年だと思ったことがない。
僕にとって美少年とはもっとベタな概念であり、デビュー時のエドワード・ファーロングとか幼いころのピアニスト牛田智大あたりが該当するものであって、それと比べれば、ビョルンはとうが立っているし、顔が長いし、どっちかというとダ・ヴィンチ風の古典的な顔立ちで、正直好みではない(ヴィスコンティにとっては、いわゆる美少年かどうか以上に、彼の造形がギリシャ・ローマからルネサンスへと受け継がれた西洋美術史上の伝統的な「美の規範(イデア)」に則っているかどうかのほうが重要だった)。
とはいえ、彼の存在が池田理代子や竹宮惠子、萩尾望都らに衝撃を与え、少女漫画家にとってのアイコンになったことはよく知っているし、その結果、遠い日本の地で世界に冠たる「ひとつの文化」を生み出してしまったのは、動かしがたい歴史の事実だ。

彼個人の人生に焦点を当てれば、そりゃあ回りの大人に食い物にされて可哀想だったね、という話にはなるのだろうが、逆に言えばビョルン・アンドレセンは、あの映画に出ただけで既に大変なことを成し遂げているわけで、彼のインパクトのおかげで生まれた「文化的達成」を、われわれは過小評価してはならない。
それが彼の「顔」のおかげで、彼の努力や演技のおかげではなかったのは不幸なことだし、同性からのいやらしい視線にさいなまれて可哀想だったとは思うが、そんな事例は世の中にそれこそゴマンとあって、たいていの「美しい人」は女なら町のヤンキー烈風隊にこまされ、男ならゲイ風俗関係者に消費されて、ゴミのような人生を送っておしまいである。
こうやって歴史に楔を打ち込めているだけで、彼はすでに全然「負け犬」ではないと、僕は思う。
たとえ当の本人が虚栄に倦み、不幸な生涯を送ったとしても、名も知られずに死んでいった何千億の無為な人生よりは、まともで有意義な人生だ。間違いなく彼は多くの人を幸せにして、多くの人の霊感源となれたのだから。
そしてビョルン・アンドレセン本人もまた、自分のあの時の「成功」を、そこまで悪いことだったとは思っていないはずだと、このドキュメンタリーを観たうえでなお、思う。

観終わって、なんとも奇妙な感慨にふけってしまう映画だ。
ルッキズムとチャイルド・アビューズに加担した日本人としての罪悪感は確かにある。
でも、スターダムを享受するのは、多くの者が恋焦がれる圧倒的な勲章でもある。
祖母ちゃんが勝手に応募したからといって、別に人狩りにあって徴用されたわけではない。
そこでつぶされるのが、ほんとうに世間様のせいなのか? という思いもある。

観ていてどこか不思議な感じがするのは、映画製作者と当のビョルンのあいだに、微妙な認識の齟齬があって、あえてそれを「埋めない」作りにドキュメンタリーがなっているからではないか、とも思う。
監督たちは明らかに、ハイティーンのときに「性的に消費」されたことが、ビョルンを「壊した」と考え、そこに焦点を合わせて撮っている。いかにも今風な視点だ。
でもビョルンのほうは、どうなのか?
意外にも、この映画のなかで彼の口から恨み言が出ることはあまりない。
違和感のなかで生きてきたこと、「世界で一番美しい少年」というフレーズが重荷だったこと、右も左もわからないままに消費されてきたことについては、明確に語る。
でも、彼自身は、そこまでヴィスコンティを恨んでいる様子もないし、日本のことは「大好きだ」と述べ、「ぜひ再訪したかった」と言っている。要するに「悪い思い出」というわけでもないらしい。
どちらかというと、本人は自分の弱さ(&才能の欠如)のせいで世間の期待にアジャストできなかった部分のほうに、意識が行っているように思える。実際、彼はパリで一年放蕩して戻ってから、一本映画に主演し、結婚し、演劇学校に入り直し、二人の子どもを授かっている。少なくとも「『ベニスに死す』のせいで廃人になった」わけではまったくない。
おそらく彼をもっとも痛撃したのは、泥酔した自分の傍らで、長男を乳幼児突発死症候群で死なせたことであり、彼の人生が真に暗転したとしたら、起点はそこだったのではないか。

この映画における製作者は、(ある意味当然のことながら)「『ベニスに死す』に出演したせいでぼろぼろにされた美少年」という枠組みを常に強調するように撮っている。それ自体は別に噓ではないし、彼の人格形成に大きな影を落としただろうことは容易に想像できる。
ただ、そのまま観ていると、次々と「後出し」で、「実は母親に捨てられたうえ、自害されている」とか、「兄妹とも父親が誰か知らない」とか、「自分の庇護下にある状態でSIDSで長男を亡くしている」といった、もっと根本的な「彼を生きにくくした要素」が提示されるので、少しとまどってしまう。
ちょっと待って。それ、最初に言ってくれよ、みたいな。
いや、そっちのほうが結構大きい問題なんじゃないの? みたいな。

どちらかというと、僕の思ったビョルン・アンドレセンの人生は、殊更「特別」な悲劇ではなく、ほぼすべての「脱皮できなかった子役」たちに共通する、きわめて普遍的な物語だと思う。
複雑な家庭環境。ショービジネスに熱心な保護者。
あまり覚悟を決めずに出た作品で果たした大ブレイク。
異常なフィーバー。寝る間もないほどの多忙さ。
でも、それに続くヒット作はなかなか出ない。
顏はごつくなり、一瞬のかぎろいの美貌は喪われていく。
やがてオファーはかからなくなり、自尊心は毀損される。
なんとか大人になろうとするものの、子供の部分が抜けない。
家族ごっこは簡単に崩壊する(彼の場合は真の悲劇だが)。
酒浸り。ドラッグ。世捨て人。没交渉。エトセトラ、エトセトラ。

むしろ、僕から言わせると、『ベニスに死す』当時のビョルンは、「よく守られていた」部類に思える。
たしかに、今の感覚で観て、ビョルンを見初めて鼻息荒い(明らかに目の色の変わった)ヴィスコンティが「シャツを脱げ!」とか叫ぶと、「うっわあああ!」と思う。僕も思った。
でも、70年代に少年の身体を確認することがそんなに異常だったかと言われると、正直ふつうにあったんじゃないかと思う。ジャニーズだって、似たような齢の少年、さんざん半裸にしたり、透明のスケスケ衣装着せたりして今でも踊らせてるじゃん。
しかも、ヴィスコンティは、ほぼ同性愛者ばかりだったスタッフ全員(しれっとナレでそう言われててのけぞったw)に、「タジオを見てはいけない」との厳命を出していたらしい。「私は知らぬうちにヴィスコンティに庇護されていたのだ」とビョルン。
僕は、てっきり「ヴィスコンティにお稚児さんにされた」みたいな話をきかされるものだとばかり思っていたので、逆にちょっと驚いた。ちゃんと、商品には手を付けなかったんだな、あのじいさん。

いや、今の感覚でいえば、やはりビョルンは、食い物にされていたのだ。性的に消費されていたのだ。
それは間違いない。そこを否定したいわけではない。
でも、当時の感覚からすると、ヴィスコンティは、むしろビョルンを丁重に扱っていたようにしか思えないんだよね。
少なくとも、似たような時代に日本で、深作欣二が川谷拓三をモーターボートで引きずり回してガチで殺しかけたり、神代辰巳が水に沈めた中川梨絵を棒でさらに抑え込んだり、大島渚が吉行和子を縛って吊るして水かけて殺しかけてたことを考えれば、映画内でうつる撮影風景を見ても、ビョルンの扱いを見ても、「余程ちゃんとした現場」のようにしか思えないという話なんだけど(笑)。

観ていて思ったのは、柳楽優弥にしても、カルキン君にしても、「身を持ち崩す」子役って、たぶん自分の成し遂げたことと、得られた名声の「ギャップ」が自尊心を食いつぶすのだろうな、ということ。
ビョルンは、ヴィスコンティから指示されたのは、「歩け、止まれ、振り返れ、微笑め」の四つだけだったという(面白いな、こいつ)。たぶん彼は、「それくらい」しかやっていないのに、「あれだけ」の評価と評判がついてきたことが、とにかく重たかったんだと思う。
だって、ジャニーズやビリー・エリオット出身者って、概ねまっすぐ育ってるじゃない。あれって、「あれだけ頑張って」「あんな凄いことまで成し遂げた」結果として、名声や評判がついてきたから、それをしっかり受け止められるんじゃなかろうか。
逆に、そこの「努力・献身・達成」という過程がぽっかり抜けた状態で、「成功・名声」というご褒美がいきなり天から降ってきたときに、人間はどこかでゆがんでしまうものなのだろう。
人間は、努力と成果が釣り合わないと心の均衡を保てなくなるくらいに、本質的に「道徳的」な存在なのだ、きっと。

それにしても、不思議な魅力のある老人だ。
長髪の白髪に、皺の刻まれた顔。極端な痩身。
どこか悲しげで、とぼけたような風もある、澄んだまなざし。
とても66歳には見えない。80くらいいってそうな老けっぷりだ。
でも、なぜか少年のような佇まいもある。絵になる老人である。
これだけ苦労の多い人生を送ってきて、ゴミ屋敷で世捨て人のような生活をしながら、なんとなく飄然とした小ぎれいさは保っていて、えらく若い彼女が居て、献身的に世話を焼いてもらっている。
いしだ壱成や清原のような、才能をダメにしてしまった人間特有の悪相や負け犬感がない。

たしかに、彼は他の人以上に繊細で、傷つきやすく、感受性豊かな青年だった。
一人歩きする美少年のイメージと、望外の名声にたやすく押しつぶされてしまった。
両親に捨てられた寂しさと、喪った幼い命の重さに押しつぶされてしまった。
でも、彼はなんとか生きてきた。廃人になることもなく、自死を選ぶこともなく。

たぶんこの人は、ぎりぎりのところで致命傷を負わずに生きながらえる「すべ」を、長い苦難の人生のどこかで身に着けたのだ。人より断然弱いが、ぽきりと折れない芯の粘り、したたかさがある。そんな感じ。
傷ついた、ダメになったといいながら、彼女任せで10日もかけて掃除してもらって一言の礼も言わず、東京から彼女のスマホで電話をかけまくり、そのくせ若い男の影を感じたら詰問する。で、彼女にキレられたら途方に暮れ、「さてどうしたものか」と考え、考えるのをやめ、いやなことは後回しにして忘却する。そうしたら、そのうちまた勝手に彼女が戻ってくる……。
どうだろう、この爺さん。意外にしぶといではないか(笑)。

本作は、製作者にとってはチャイルド・アビューズ告発が主眼のドキュメンタリーかもしれないが、ビョルン・アンドレセンにとっては、長く立ち止まって考えないようにしてきた「苦しみの元」と、もう一度向き合い、次に進んでいくための糧を得る、「巡礼」と「再生」の物語でもある。
この5年にわたる自分探しと客体化の旅を終えて、彼が少しでも肩の重荷をおろして、生きやすくなっていることを心から願う。
にしても……ラストの日本語曲の羞恥プレイ感は半端なかった……(笑)

じゃい
じゃいさんのコメント
2022年11月13日

最高の誉め言葉です! ありがとうございます!

じゃい
なかみつ123さんのコメント
2022年11月12日

こちらの感想を読んで、すごく言語化できてると思いました。そして共感しました。ありがとうございます!

なかみつ123