劇場公開日 2019年11月2日

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「象は二度と立ち上がらなかった」象は静かに座っている 因果さんの映画レビュー(感想・評価)

3.5象は二度と立ち上がらなかった

2023年3月24日
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死の匂いに包まれた山中の寂れた街。シャローフォーカスのぼやけた視界によって記名性を剥ぎ取られた風景は、どこにでも存在しうる普遍的な空間として我々に提示される。満州里にうっすらとユートピアの幻想を抱くブーを、ジンは「どこへ行こうが変わらない」と諭す。

劇中では街の狭間でそれぞれに固有の懊悩を抱える人々の姿が描き出されるが、彼らの苦悩もまたありふれたものに過ぎない。チェンの彼女は不幸な己の感傷を並べ立てる彼に向かって「そんなのは誰だって同じ」と言い放つ。

自己否定や自己憐憫は、自分を素直に肯定できなくなってしまった者が自他の境界を策定するために用いる苦肉の策だ。だがそれさえもがありふれたものだという。苦しみは兌換紙幣で、俺の苦しみはお前の苦しみだ。ゆえに俺とお前は同じ人間。とすれば「俺」なるものも「お前」なるものも存在しない。じゃあ俺が生きてる意味って何?

(そんなものは、無い。)

何もかもが意味を成さない絶対的な虚無世界。そこから抜け出せるかもしれない唯一の手段は死ぬことだ。死後の世界もまた虚無だとしても、生きながら虚無を感じ続けるよりは遥かにマシだ。死は救済。死ねば楽になる。

しかしその単純明快な悟りを受け入れられず、人々は迂回と遅延を重ねる。窓から外へ出て玄関に回り込んでみたり、怪しい切符転売人に付いていく途中で立ち止まってみたり。あるいは「俺の気持ちは誰にもわからない」と強がってみせたり。だが死の欲望は抗いがたく押し寄せる。誤射に脚を撃ち抜かれたチェンが苦悶のあわいに浮かべる笑顔。

生への転轍点を通り過ぎてしまった物語は、したがって死へと急速に直進する。ブーとリンとジンは夜行バスに乗って満州里の動物園を目指す。

満州里の動物園にいるという一日中座ったままの象。それは死のアレゴリーだ。4本の脚で3トンもの自重を支えている象は、一度座ると再び立ち上がるのに大変な労力を要する。老化や怪我で身体機能の落ちた象などは座ったが最後、二度と立ち上がれずにそのまま死んでしまうことも多いという。つまり一日中座ったままの象というのは、死期の迫った象であるといえる。

真っ暗な闇夜の中、バスを降りた乗客たちが象の鳴き声を耳にする。そこで映画は幕を閉じる。

本作を撮り上げた直後、監督のフー・ボーは自ら命を絶った。世界を覆う虚無の前に跪いた彼が立ち上がることは、二度となかった。

俺自身はこの映画の言いたいことに納得できない。仏にこんなことを言うのも酷だが、生きていることや自己存在の意味について、もっと長い時間をかけて考えてみてもよかったんじゃないか。「俺」と「お前」を分かつ何かが本当はあったんじゃないか。生への転轍点を実は見落としていたんじゃないか。そんなことを思ってしまう。

彼の死の原因が何であるかはわからない。理由を問おうにも既に当人がこの世にいないのだから。ひょっとしたらその不可侵性だけが自己存在の絶対的な刻印になると考えてのことかもしれない、がこれも邪推だろう。

いずれにせよ29歳というのは若すぎる。彼の作家的軌跡をもっと追いかけたかった。

因果