男はつらいよ お帰り 寅さんのレビュー・感想・評価
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寅はもういない
良かったです。
ただ、この映画は正に「男はつらいよ」のラスト作品だという事です。この映画でおいちゃんおばちゃんは亡くなっていることには触れられていましたが、寅に関しては一切触れられていない。ただただ満男の情景に幻のように現れている。しかし、幻影を見るだけで何かを言ってくれるわけではない。
寅のいない世界では、ただただ私達が日頃感じているリアルな現実世界しかなく、ラストで満男が寅を思い出し涙を流す。これはもう寅は存在しないという現実を突きつけられてしまった。ラストの回想シーンは本当に悲しくて泣き崩れてしまいました。
この映画で寅は亡くなりましたとは言わないところ唯一の望みですが、それは自分的には無理としかいえない終わり方でしたね。(お帰り寅さんという小説タイトル、満男が回想して涙を流す等)
山田監督は男はつらいよのエンディングをしっかり創りたかったのではないかと思いました。
なので、現実世界に取り残されたように、本当に悲しく辛かったです。
こんな寅さん見たくなかった90% やっぱり見に来てよかった200%
試写会に当たり、今夜、一般公開より一足早く待望の新作を見させていただいたので、そのつとめと思い感想を書きます。
映画の初めの富士山の松竹映画のマークに合わせて、いつもの、♫チヤーン チャラリラチャラ チャララ という音楽もなく、寅さんらしからぬ静かな始まり方に、いつもと違う違和感を感じるところからこの映画は始まりました。
始まってしばらくたって、一番最初の回想シーンからもうだめです。
泣けて泣けて、胸が苦しくなってしまいました。
さくらが博を柴又の駅まで追いかけて、帰ってきて、寅に博との結婚の約束の報告をする第1作の名シーンです。
さくらも博も寅もみんなみんな若くて生き生きとしているシーンを見せつけられた後に、年老いたさくらと博、そして既においちゃんもおばちゃんも仏壇の中の人となり、寅については、その生死については映画の中では語られませんが、見ているこちらは当然に、寅さんはもういないのだなと思ううと、その残酷なまでの現実がに、つらくて見ていられない気持ちとなりました。
ある意味、この映画は全編がこの繰り返しで、寅さんファンであればあるほど、見ているのがつらくなる映画ではないかとも思えます。
思えば私が初めて劇場で寅さん映画を見たのは、中学2年生の夏、第17作の夕焼け小焼けでしたが、そのころには寅さんも性格的に既に温和に丸くなり、いいおじさん化し始めていましたが、まだビデオもなかったあのころ、それ以前の旧作を場末の名画座に探すように見に行った時、手のつけられない、凶暴でわがままな寅さんを見て腹が立ったのを憶えています。
その後寅さんはどんどん丸くなり、満男にとってはいろんな意味で良いおじさんとなっていった辺りが、今回の映画の伏線となっています。
山田監督は最後の何本かの満男シリーズを撮っていたあたりから、今回の映画のような延長線の上にある作品を構想していたのではないのかと思うほどです。
映画を見終わった後、劇場からの帰り道、駅まで歩いている間、まるで大切な人のお通夜の帰り道のような、せつなくて、つらくて、悲しくて、苦しい思いをしながら歩いていました。
こんな思いを、映画を見た後に感じたことがなかったので、これから劇場でこの映画を見ようとしている方たちに、なんと伝えてよいか迷うところですが、タイトルの通り、見たくなかった90%、見に来てよかった200%です。
ある意味今夜は少し興奮しているようなので、少し落ち着いたら、お正月過ぎに、今度はお金を払って、もう一度見てみたいと思います。
きっと、あの年老いたさくらや博が、しばらくぶりに再会した親戚のようにやさしく『2階で良かったら泊まっていけば・・・』と癒してくれるのではないかと思えるのです。
寅さんのいない寂しさを共有する
東京国際映画祭で鑑賞しました。
感想から述べると、本当にいい映画でした。涙が止まりませんでした。
語彙力が乏しい自分が恨めしいのですが・・・エンドロールでは文字通り、泣きっぱなしでした。
こんなに笑って泣いて、泣きすぎて懐かしくて胸が締め付けられて、ああ、私って本当に寅さんが好きなんだなぁとつくづく感じました。私の中で、架空の人物でこんなに恋しく思えるのは寅さんだけかもしれない。
それは渥美清という俳優そのものが好きだということにもつながると思うのですが、渥美清さんが私生活を一切見せなかったことで、より渥美清=寅さんが一体化して、寅さんの存在感が現実味を増したとも思うんですよ。
だから、私およびファンの中では寅さんはファンタジー性がないんです。誰の親族の中にも一人はいそうな「ちょっとだめなおじさん」が、本当に存在してしまってるんです。だから、「便りはないんだけど、どうしてるのやら」とでもいうように、ふと思い出したときに強烈に恋しくなる。寅さんを思い出すときに一種の郷愁を帯びるのは、「子どもの頃はよく遊んだのに」という子どもの立ち位置に自分が還ってしまうからなんです。少なくとも、私はそうです。それは満男そのもので、私は満男を疑似体験しているようなものなのかもしれない。
で、本作も満男が主役です。満男は7年前に奥さんを亡くし、めちゃくちゃいい子に育った娘と一緒に暮らしてます。脱サラして、作家として一歩を踏み出してヒット作がうまれ、サイン会まで行うほどになります。
後藤久美子の演じるイズミはばりばりのキャリアウーマンなのですが、台詞の読み方が初期のゴクミの大根役者ぶり(失礼!)にそっくりで、歳を重ねたのでもっとうまく演技できるはずだろうに、あえてその頃に寄せている感じがしました。それが国際社会で活躍していて、たまに日本語が辿々しくなる女性像とマッチしています。満男は寅さんのようにアグレッシブではないですが、肝心な所で躊躇したり曖昧な態度を取るところが非常に寅さんに似ていて、DNAを継いでるなぁと思わせて笑えます。そして、優しいところも。
で、満男の出版社の編集担当者役・高野演じる池脇千鶴が非常にうまい。満男との距離を壊したいような一線を越えたいような、もどかしい女心と空気感を表現してます。
カフェとなった「くるまや」のなかで登場する色々なアイテムやシュチュエーションから思い出される、寅さんのいた日々。
誰も「寅さんはどこにいるのやら」など、寅さんが実際どうなったのかという直接的な台詞は言わないんです。
ただ、思い出す。それがヒロインや名場面とともに挿入されるんです。寅さんを取り巻く家族やリリー、友人たちと、その思い出を一緒に共有しているようで、切なくてたまりませんでした。
寅さんのいない喪失感から逃げずに受け止めるようなラストに、心の底から感謝しました。
みんなの心に寅さんをよみがえらせてくれた監督に、本当にありがとうと言いたいです。
くるまや同窓会
リチャード・リンクレイター監督の「6才のボクが、大人になるまで。」は13年間にわたる同一キャストの夫婦と息子を経年的に描いて、2015年のアカデミー賞では話題をさらった作品だった。もちろん、その製作手法が大きく評価されたことは言うまでもないだろう。22年の間隙を超えての「寅さん映画」である。令和になった今、新進小説家となった満男は娘ユリとの生活がある。そしてある日、偶然再会した及川泉との数日間が描かれていく。そこで展開される物語は、かつての(後期の寅さんは殆ど満男の青春成長&恋愛物語と人生アドバイザーとなる寅の話だった)満男と泉のエピソードや「くるまや」に集う面々の老いと世代交代を、かつての映画のシーンのカットを共有させたり、目配せしたセリフを重層的に織り交ぜながら進んでいく。
今回の満男と泉のエピソードは、かつては恋愛コンサルタントとして存在した寅さん不在のなか、互いに「ここに寅さんがいたら、どうしていたか」と言うことを意識しつつ描写されていく。相変わらず行方不明の寅さんの存在や輪郭が、すべての登場人物が寅さんを意識することによって浮彫になっていく。たとえば、荒野で堀跡を掘っていったら、城の全容が浮かび上がるようなものか。そこには確かに、この形の「寅さん=城」があったことが解る。「桐島、部活やめるってよ」(2012年 吉田大八監督)という高校生の傑作群像劇で、タイトルロールの桐島は最後まで登場してこなかった。そんな香りを残しつつ本作では、膨大に存在する「男はつらいよ」での寅さんが<具象的に>登場していく(シリーズ50周年、49作品)。最後まで「令和になって老いた寅さん」は出てこないが、さくらは「お兄ちゃん、いつ帰ってきてもいいように」と二階の部屋を使えるようにしている。まだ寅は、どこかで生きているのだろう。
「ニュー・シネマ・パラダイス」(1989年 ジュゼッペ・トルナトーレ監督)を彷彿させるクライマックスのサービスシーン。やはり「冒頭の夢」のあるお約束。微笑ましい。
役者では夏木マリがいい。
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