劇場公開日 2019年12月13日

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「進む女、眺める男」ある女優の不在 因果さんの映画レビュー(感想・評価)

4.0進む女、眺める男

2022年10月30日
iPhoneアプリから投稿

曲がりくねった一本道を歩いていく大女優ジャファリ。そしてそれを追いかけていく少女マルズィエ。あるいは森の中で絵を描く元女優のシャールザード。パナヒはそれぞれ世代の異なる3人の女性に眼差しを向けるが、そこにはひび割れたフロントガラスや背の高い鉄網といった物理的な障壁がある。これらはそのまま男性と女性にまたがる断絶のアレゴリーといって差し支えない。

イスラム圏農村部に今なお巣食う強烈な男尊女卑思想は、大都市の心地よい匿名性によっておそらく忘れかけていたであろう性差の意識をパナヒに再認させる。パナヒは暴力的な手段によって女性を家庭に押し込めようとする村人たちを目の当たりにして、自らの「男性」という属性に対する疑問を募らせていく。ジャファリがシャールザードの家に泊まったとき、彼は一人だけ車中泊という選択を取った。あるいはマルズィエを自宅に送り届ける際も「こういうときは女性のほうがいいから」と言ってジャファリを同行させた。

いやしかし「何もしない」というのは結局のところ傍観を決め込んでいるという点において村の性差別主義者たちと大差ないんじゃないの、という批判はごもっともだし、パナヒ自身がそれを一番よく自覚している。シャールザードがかつて映画監督に酷い仕打ちを受けたという話をジャファリから聞かされたとき、パナヒは少しも弁明せず、イランの映画業界にそういう暗部があったことを素直に認める。彼の苦々しい表情には、自身もまたそのような業界に属する人間の一人であることへの苦悩と罪悪感が滲んでいる。映画の中でさえ3世代にわたって続いてきた男尊女卑の罪禍が、一人の男の反省によって贖えるはずがない。だからこそパナヒは物語に、あるいは自分自身に安易な解答を提示しない。「さあ男も女も手を取り合ってみんなで踊りましょう!」みたいな欺瞞に決して陥らない。夜中、シャールザードの家で3人の女たちが楽しそうに舞踊する様子が窓の外から遠巻きに映し出されるシーンは印象的だ。しかし、パナヒは本当に何もしていないわけではない。現に自らの作家生命も顧みることなくかくもControversialな映画を発表してみせたのだから。

ジャファリとマルズィエが街へ出るための一本道を二人でずんずんと歩いていくラストシーンはやはり素晴らしい。二人が向かう先が希望であるのか絶望であるのか、それはまだわからない。しかし進んでいるということに意味がある。一方でパナヒはそれを停まった車の中から呆然と眺めている。フロントガラスには大きなヒビが入っている。マルズィエの奔放に怒り狂った彼女の弟が腹いせでそれをやったのだ。

暴力によって女性をなんとか抑圧し続けてきた男たち。彼らは彼女たちがいなくなったとき、ようやく自分たちが全き停滞の中にあることを知る。暴力による支配をすり抜け未来へと向かっていく彼女らの背中を、彼らはただ呆然と見送るほかない。

パナヒの作家的キャリアからして、本作における農村の差別的因習がイランの国家的不寛容に重ね合わせられていることは自明である。しかしそれだけのために知もなく財力もない農村を悪として描くこと(=都会の文化人である自分たちを正義として描くこと)はある種のエリート主義といえるのではないか?さて、ここで各位相におけるパナヒ自身の立ち位置を確認しよう。まずは芸術家-イラン政府という対立位相。ここにおいてパナヒの立ち位置は芸術家である。両者の関係において圧倒的な権力を保持しているのはイラン政府であり、芸術家は常にその抑圧に喘いでいる。次に男性-女性という位相。ここではパナヒは男性であり、女性を抑圧する側に回っている。したがって二つの位相が重なり合う本作において、パナヒは一方では被抑圧者、一方では抑圧者というアンビバレントな存在として立ち現れる。男性-女性というレイヤーを取り込むことによって社会批判を行いつつも芸術を過度に高潔化しないという離れ業を実現してみせたパナヒ監督の手腕に脱帽する。

因果