劇場公開日 2018年7月21日

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「自分を観ることの不可能性」スティルライフオブメモリーズ よしたださんの映画レビュー(感想・評価)

2.0自分を観ることの不可能性

2018年8月14日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

悲しい

知的

難しい

 中華圏の映画についての本も書いている四方田犬彦の「映像要理」が下敷きとなっている。この夏、台湾映画の特集上映に通ったときに、毎回この作品の予告を観ていたので、今日の本編を観ても新鮮味がなかった。予告編の記憶の確認作業という意味以外のものを見つけることは難しかった。
 ただ、予想以上に女性器を接写する場面の回数が多く、まさに映画のテーマがそこにあるという作り手の強い意志を感じた。女性器への執着について、美術館で講演をしていた先生が、クレジットに出演者として名前のあった四方田氏自身であろうか。
 この世に生を受けて最初に見る女性器は母親のものである。この言説には同意しかねる。生まれたばかりの赤子には、女性器を視認する視力がまだ備わっていないではないか。
 この世で最後に誰の女性器を見るのか。なるほど、年を取ると女性器を見るたびに、これが最後なのかもしれないと思うものなのかも知れない。完全な男性目線の物言いではあるが。
 映画の中で最も印象に残ったのが、「なぜ画家は自画像を描くのだろう。」という写真家のセリフである。
 写真家は自分の顔を撮影することは物理的に不可能だ。鏡を用いても、そこにはカメラを構えた自分が映る。かと言ってタイマー撮影をしても、それはカメラが機械的にシャッターを切るのであって、写真家の意志によってボタンが押されるわけではない。
 写真家の不可能性についての一考察であり、これはまた、自画像ならぬ自「性器」像は、現像・プリントの技術がなければ観ることができないことと対を成している。(デジカメのある時代には、成立しない言説かもしれないけど。)
 カメラというものを通して、自分を観ることの不可能性について考えさせられた。
 面白い映画も少ないこの夏。四方田氏の著作に触れてみるのもいい。

佐分 利信