劇場公開日 2017年2月11日

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「対立に拘り敗者に心砕いたヴィスコンティ監督の遺言の様な演劇映画の傑作」家族の肖像(1974) Gustavさんの映画レビュー(感想・評価)

4.5対立に拘り敗者に心砕いたヴィスコンティ監督の遺言の様な演劇映画の傑作

2020年4月18日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

2年前の「ルードヴィッヒ」の撮影中に心臓病で倒れ、死の宣告を受けたルキノ・ヴィスコンティ監督は、車椅子に着座したままの演出でこの作品を完成させた。ヴィスコンティ監督の体調を考慮したことで、セット中心の室内撮影が全編に渡り、映画的な広がりは無いが、演劇の密度の濃いドラマが展開する映画になっている。いつ撮影が中止になるかも知れない状況下での緊張感が、作品の完成度を高めているのではないだろうか。死を意識した老巨匠の人生行路を反映した内容からは、最後の告白であり白鳥の歌と捉えていい。ヴィスコンティ監督と同世代の知識人の主人公が、ヨーロッパの旧文化の終焉を惜しみ、新しいヨーロッパ文化を身に纏った変形家族の一員に余生の生活を狂わされる。主人公の教授を「山猫」のバート・ランカスターが演じ、彼を時折父親のように接する青年コンラッドにヘルムート・バーガーが扮するキャスティングが、まさに監督自身を投影したものである。ただ、バート・ランカスターの貫禄と深みのある演技と比較して、バーガーの演技が最良とは言い難い。これが「山猫」の時の若いアラン・ドロンならば、更に完璧であっただろう。

舞台はローマ市内の古く堅牢な教授の屋敷。孤独を愛する独り身の教授と管理人と家政婦だけの時代から取り残された静かな空間。書斎を飾るのは、18世紀のイギリスで流行した(カンバセーション ピース)の絵画たち。上流家庭の家族団欒の様子が記念写真風に描かれたものだが、他人と接するのを嫌う教授がそのような絵画の蒐集家という矛盾がまず生まれる。そこへ、上階を借りたいと現れるのが、実業家夫人ビアンカ・ブルモンティ。それも年下の愛人コンラッドの為の部屋という。娘リエッタと婚約者ステファノの試験的な同居も臆することなく喋りまくる。凡そ交友関係を結ぶことはない教授と富豪一族の物語の端緒が、パリから来た画商が薦める一枚の(カンバセーション ピース)になる。頑固な教授も、欲しい絵を家賃の前払いとして交渉するリエッタらの要求に結局折れる。この導入部の人物紹介と展開予想できない設定の興味深さは秀逸である。登場して存在感が圧倒的なビアンカのシルバーナ・マンガーノが素晴らしい。「ベニスに死す」の殆ど喋らない貴婦人とは正反対の、欲望を晒しても美しい自由気ままな上流階級の婦人を完璧に演じている。ランカスターとマンガーノ二人のやり取りを観ていると、上質な演劇を鑑賞しているようだ。

教授とコンラッドが芸術に関して会話する場面に、二人の決して理解し合えない微妙な関係が表現されいる。モーツァルトのアリアに聴き入るコンラッドを見詰める教授に対して、その青年はレコードが鳴り続ける間何度も電話を掛ける。それでも目にとめた一枚の絵画の作者アーサー・デーヴィスを語り、類似した作品の東屋の位置が違う絵を写真で知らせてくれる。これが、昼食を共にする場面に続き、ディナーの約束に繋がる。(ここで映画とは直接関係ないが、モーツァルトのオペラの話の中で、教授はカール・ベームとレナード・バーンスタインのレコードの話に及ぶ。当時の一番高名な指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンの名を敢えて使わなかったのは、やはりヴィスコンティ監督の好みなのだろうかと詮索してしまった。)しかし、ブルモンティ一族はディーナーの約束を反故にして一ヵ月もの間ヨット旅行をする。礼儀も知性も無い彼らによって、教授が心身共に疲弊していくのだが、無意識に家族の団欒を乞う自分の半生を回顧するフラッシュバックで、母ドミニク・サンダと妻クラウディア・カルデナーレが登場する。ここにもヴィスコンティ監督らしい女優の好みが表れている。

爆弾襲撃に合い血みどろになったコンラッドを囲うように秘密の部屋で世話をする場面は、ヴィスコンティ監督自身が若い時に”赤い公爵”と言われる政治活動をしていた過去を窺わせる。作中でもコンラッドをドイツの左翼学生の生き残りと説明するが、それ以上の深入りはしない。最後の晩餐の如く教授とブルモンティ一族が食事する場面の、コンラッドとステファノが対立し喧嘩になる演出の緊迫感が素晴らしい。テネシー・ウイリアムズの舞台やオペラの演出を数多く手掛けてきたヴィスコンティ監督の本領が、クライマックスとして見応え充分だ。二人の間に入り仲裁する教授だが、若い世代との断絶が明確になる。ここに、死を覚悟したヴィスコンティ監督の自伝的舞台劇に込めた対立と敗者の概念が浮かび上がる。それは政治的な思想の対立、男女の対立、世代の対立、芸術の対立であり、どちらかが敗者となる側への作家ヴィスコンティの熱い眼差しである。

イタリアデザインの洗練さと高級感溢れる家具や部屋作りの新旧の対比も視覚に訴える美術の素晴らしさ。フランコ・マンニーニの重厚で哀切な音楽の調べ。美を愛するヴィスコンティ監督が寵愛した俳優たちの演技のハーモニー。そして巨匠の渾身の演出力。音楽、美術、演技、演出すべてが溶け合う贅沢な演劇映画として本物の傑作だった。

  1978年 11月27日  岩波ホール

この頃から鑑賞の参考にしていた映画批評家の中で、個人的に別格として尊敬していた人が、飯島正氏と淀川長治氏であった。勿論どちらも雲の上の批評家ではあったが、自分が良いと思った作品を調べるとお二人が高評価していたものと重なり、勝手に親近感を抱いていた。全てが当て嵌まるわけではないが、その価値観は今も変わらない。この作品は、その年のベストワンにお二人とも選出したことで珍しいことだった。特にヴィスコンティ監督の「夏の嵐」を高く評価していた飯島正氏が久し振りにヴィスコンティ作品を大絶賛していたのが印象に残っている。

Gustav