劇場公開日 2021年3月8日

「ニワカなりの感想」シン・エヴァンゲリオン劇場版 アラカンさんの映画レビュー(感想・評価)

4.0ニワカなりの感想

2021年5月13日
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鑑賞方法:映画館

作品が発表されて 25 年にもなるそうだが、私はテレビシリーズは一つも見ておらず、劇場版も「序・破・Q」をレンタルで1回ずつ見ただけというニワカである。この作品にどっぷりとハマっている娘が、一緒に見に行ってもいいと言ってくれたので最近になって見始めたという有様で、コアなファンが多いこの作品について何か書くというのも気が引けるが、感じたことを少し書く。

これまで、エヴァに接する機会が実は何度かあり、研究室の学生さんに勧められて見始めたりしたのだが、どうにも主人公の碇シンジの幼稚さが鼻持ちならず、作品世界に入り込むことがどうしてもできなかった。いくら主人公の成長が物語の骨格だと言っても、限度があるだろう。「何故」という疑問に一切答えないのがこの作品の作風であるため、「何でこんな幼稚なガキに世界を救って貰わねばならんのか」という疑問が頭から消えることがないまま見続けるのは、苦痛でしかなかった。

世界を救う当事者が、普通に学校に通っているというのも全く解せなかった。彼が闘わなければ世界が滅ぶというのであれば、サッカーやラグビーのワールドカップ全日本代表選手など比較にならないほどの待遇を用意し、いつ使徒が襲って来てもすぐに出動して貰えるように最大限の配慮をすべきではないかと思うのは、きっと私が歳を取りすぎたために違いない。アスカが主人公に対して投げつけるトゲだらけの言葉を聞くたびに、「その通りだ」と溜飲を下げていた。

ところが、コアなファンは、このひ弱な主人公に自分を投影しているらしい。彼らは、いろいろなプレッシャーに責められてオロオロする現実世界の自分とこのシンジがシンクロするらしいのだが、還暦を過ぎて人生の主要部分が終了している私のような人間は、全く同調できなかった。シンジを完全に自分の外部の人間としか見ることができず、その未熟さにひたすら腹が立った。こんな自衛隊員がいたら国が滅ぶだろうとしか思えなかった。劇中の台詞で言えば、「シンクロ率 0.00%」と言った状況である。

原子力空母の建造に1隻数千億円かかるのを考えれば、あのような能力を持つ特殊なモビルスーツの単価は日本の国家予算を超えるはずだが、そんなものが 13 号機まであるとか、ヤシマ作戦で日本中の電力を集めたのであれば、あんな太さの電力ケーブルでは焼き切れてしまうはずだとか、細かなところも気になった。司令や支援スタッフが戦闘中の情報交換を音声で行なっているのも時代遅れで、物理量の計測値などは各自がパネルの表示を見て瞬時に理解しなければ間に合わないほど即時性が求められるはずである。

また、最初の搭乗で、シンジがロクな訓練もしてないのに使徒と対等な闘いをしているのも鼻白んだ。そもそもエヴァの操縦は、オペレーターの指示をエヴァの機械装置に伝えればいいだけであり、コックピットを機外に出して、安全な場所で操縦して信号だけ無線で伝えれば良いのではと思うのだが、それが成立しない設定なのだというのが娘の説明であった。だが、そんな説明シーンも一切なかったはずである。

シンジが暴走したために犠牲になった人々が相当数いるはずだという疑念は、「Q」で周囲の敵意に晒される姿が描かれていたので、いくらか気が済んだが、シンジの決定的にダメなところは一面的な情報を盲信して、裏も取らずに身勝手な思い込みで突っ走ってしまうところである。この思慮の浅さと結果の重大性のアンバランスは、どこかで見た覚えがあると思ったら、地下鉄サリン事件を起こしたオウム狂徒の実行犯と同じように思えて来た。同調などとんでもないキャラである。

おかしいと言えば、父親のゲンドウの行動や態度も極めて異常であった。何らかの理由で息子を操縦者にしなければならない事情があるのであれば、あんな子育ては目的の放棄に他ならない。しっかり我が意を含ませて手懐けることに全力を注ぐのが、作戦執行の責任者の取るべき態度であるはずであり、国家予算級の機械装置を作るより重要であるし、はるかに低コストで行える内容である。全くやる気がないとしか思えない。人生を賭けた「人類補完計画」の成否の鍵を握っているのが、自分の息子であるというのであれば尚更である。

人間個々の自由が失われる代償に死から逃れられるという「人類補完計画」というのは、共産主義のパロディなのだろうが、そんなものに賛成する人間がいるということ自体あり得ないと思う。個が失われたら不死に何の意味があるのか。しかもそれで亡き妻に再会できるというのはどういう話なのか、全く分からない展開であり、ほとんど付いていくのを断念せざるを得ないのではないかと思われた。見終わった現在でもその思いは同じである。

戦闘の最中に何度も繰り返される「やめてよ父さん!」という台詞ほど無意味なものはないと思った。刑事ドラマなどで、逃げる犯人を追いかける時に刑事が言う「待て!」と同じで、その台詞に相手が「そうですね」とか言いながら従ってしまったらドラマがぶち壊しになるだけである。ユダが裏切らなければキリストは救世主になれなかったのである。

シンジが綾波に惹かれる設定というのも、見終わってみればかなり気持ちの悪い話である。アスカまで尋常でない存在だったというのにも脱力感を味わわされたし、月面で宇宙服も着けずにいられるカヲルというのは一体どういう存在なのかと非常に不可解であった。彼の爆発するチョーカーの扱いには、行動原理が全く読めず、非常に解せないものを感じた。チョーカーに対してシンジが見せる態度も無様の一言に尽き、自分だけ悲劇の中にいるかのような態度の一方で、届けて貰った食事を礼も言わずに人がいなくなったところで食べ、挙句にチョーカーに対して生き物らしい反応を示すところなど、本当に腹立たしい思いしか感じられるものはなかった。

このシリーズの音楽の扱いには非常に違和感を感じさせられた。特に酷かったのは「Q」に出て来るベートーヴェンの第9の終楽章と、「シン」の冒頭のバッハの「主よ人の望みの喜びよ」と、各作品に時々出て来る場違いな鼻歌である。音楽はシーンの性格を左右する非常に重要な要素だと思っているのであるが、この監督はどうやら違うようである。雰囲気を損なわれたことが一度や二度では済まない。今作で唯一しっくり来ていたのは、モーツァルトの「アヴェ・ヴェルム・コルプス」だけであった。エンディングの宇多田の歌もこのシリーズを終わらせるには力不足であったと思う。

監督の人生の中の 25 年にも大きく影を落としたこの作品において、本作は本当の意味で結末を付けたかったというのがよく分かる演出であったと思う。「鬼滅の刃」がラスボスを倒してしまったら鬼滅隊や数々の特殊技能の存在価値が失われてしまったように、本作において監督はこの作品にケリをつけるつもりだということがよく分かった。エヴァのファンは、これからロスを味わうことになるのだろうが、それはある意味正しいケリの付け方なのだと思う。スター・ウォーズも Ep9 で終わりにすれば良かったと思うのだが、ルーカスから製作権を買い取ったディズニーはやめるつもりなどサラサラないように思える。サザエさんやドラえもんのように終わりがない話というのは実は悲しい姿なのである。
(映像5+脚本4+役者4+音楽4+演出4)×4= 84 点

アラカン