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昔起きたある事件を小説にしようとしている男の物語である。
若く美しい人妻が被害者となった暴行殺人。
それは裁判所で働いていたベンハミンの心の奥に燻り続ける、25年経っても消えない燃えさしのような記憶だ。
現代と過去が交互に描かれるストーリーの中で、この事件の全容が暴かれていく。被害者の夫・モラレスの「執念」とも言える愛の深さ、新しい上司・イレーネへの恋心、酒飲みだけど気のおけない同僚・パブロとのやり取り。
ベンハミンにとって、自分の人生に深く影響を及ぼす事件だったことが巧みに描かれる。
当時のアルゼンチンの司法制度がどのようなものなのか把握するのが難しいが、多分ベンハミンたちは日本でいうところの検察みたいな仕事をしているのだろう。
昔の写真から怪しい男に目をつけるも物的証拠はなく、仕方なく目星をつけた男の生家に押し入り手紙を入手するという、ギリギリアウトな捜査を繰り広げる。
この時、犯人に迫るきっかけとなるのが酒飲みパブロの飲み仲間による、サッカー解説である。
「誰しもこれだけは譲れないものがある」とはパブロの弁だ。
犯人とめぼしき男はあるクラブチームのファン。手紙に書かれた人名は知り合いや仕事仲間ではなく、贔屓チームの選手の名前だと判明し、ベンハミンとパブロはスタジアムでの逮捕を目論む。
この時のスタジアムシーンの臨場感は凄い。誰もが試合の流れに集中し、ゴールの瞬間に一体となって歓喜する。
その中でベンハミンとパブロだけが、観客に紛れた一人の男を探し出すことに集中し、周りの喧騒から一拍遅れて追跡が始まる動と静の切り替えが見事だ。
真犯人の自白を何とか引き出すことに成功するものの、せっかく捕らえた犯人は罰を受けるどころか社会的地位を手に入れたも同然。
念願の逮捕が叶ってやっと執着から解き放たれたかに見えた夫モラレスは、また怨念に苛まれる日々に戻り、ベンハミンもまた真犯人の男に付け狙われることになる。
日本だとちょっと考えられないが、そこは長らく軍事政権下であったアルゼンチンの体質なのか、終身刑確実と思われる犯人が能力と引き換えに簡単に社会復帰してしまう下りは、ベンハミンでなくてもやるせない。
襲撃によってパブロを失い、安全の為にブエノスアイレスから離れることとなったベンハミンは、駅へと見送りに来たイレーネに対して思いを告げることも、彼女を連れ去ることも出来ず、青春への苦い別れの記憶とともに25年を過ごしたことは想像に難くない。
人生ももう終わりに差し掛かろうという時に、どうしてこの事件が気掛かりなのか。
モラレス事件の小説を書く為、当時の記憶を振り返り、当時を知る人を訪ねるうちに、ベンハミンはモラレスと再会する。
かつて妻への深い愛から、犯人を見つけようと連日駅で見張りをしていたモラレスに、当時の執着は感じられない。長い年月がモラレスを変えたのか?では何故、自分は25年経ってもこの事件が忘れられないのか。
「誰しも譲れないものがある」
パブロの言う通りなら、譲れないものとは何なのか。パブロは酒場通い、イレーネは結婚願望だった。モラレスだって、亡き妻への思いは譲れないのではないのか。
「終身刑になるべきだ」モラレスはそう言っていなかったか?
モラレス宅へ引き返したベンハミンは、この事件の本当の幕引きを知る。自らの手で犯人を拘束し、監禁するモラレスの姿。
「彼は終身刑になるべきですよね?」
かつて自分を襲撃してきた男は、長い間モラレスによって裁かれていた。モラレス自身の、「譲れない」信念によって。
衝撃的な幕引きを目の当たりにして、ベンハミンはやっと自分の譲れないものを思い出す。そう、とっくにパブロに指摘されていたのだ。
「お前はイレーネ」だと。
彼女の婚約や、事件のゴタゴタで有耶無耶にしてしまった、イレーネへの恋。キッパリと失恋していたなら燻ることはなかったのかもしれない。
でもそのチャンスすら失い、曖昧なままで生きて来てしまった。
これはミステリーではなく、ラブロマンスと呼ぶのが相応しい。共に過ごすことは出来なかったけれど、この思いは「譲れない」。
例え厳しい道のりだとしても、今度こそ彼女を手にいれるのだ、というベンハミンの微笑みは覚悟が決まってとても凛々しかった。
なんだか長々とあらすじを書いてしまったが、それぞれの「譲れないもの」を通して描き出される細やかな感情と、ミステリアスに進む物語のバランスが素晴らしかった。
長く生きていないとわからない恋もあるのかもしれない。