「理性のない人間は獣なのか」食人族 ARSさんの映画レビュー(感想・評価)
理性のない人間は獣なのか
「生命維持に欠かせない必須の栄養素を摂取するために食べ物を食べる行為を指すが、そのためだけではなく……様々な目的や意味を込めつつ、人は食事をする。洋の東西を問わず、食事の席に誰かを招待するのは、「歓迎」の意味がある。自ら調理した料理(手料理)を食べてもらうということは、親しい関係につながる」ーWikipedia"食事"より
カニバリズムを題材にした作品は沢山あるが、その中でも食人族は傑作だと思ったのでレビューを書くに至った。
これは二部構成になっており前半が探索隊と教授が人を食べないヤクモ族→食人族のヤマモモ族と接触及び探検隊4人の死亡の確認とフィルムの回収。後半がフィルムに残された探検隊がヤクモ族とヤマモモ族へ行った蛮行をTV局の人達と試写するというもの。
教授はヤマモモ族の儀式に参加後思う、フィルムの回収のために「私は野蛮人達の信頼を得たい、彼らにも理性はあるだろう」と。
実行に移せば忽ち彼等は教授達を歓迎し食事に招く。一口目は村の長、長が二口目にと差し出したのは教授。つまり認められたのだ。
ここから後半に変わる。
今までアラン達が撮ったヤラセ映像を観て教授は飽き飽きとしただろう。
ジャングルに入ったアラン一行が序盤に案内役であるフェリーペが毒蛇に噛まれ足を切り落とし焼くシーン、躊躇いなさすぎて、なんなら楽しそうに行うので引いてしまう。見せ場!!って思ったんだろうね。
ヤクモ族と出会った彼等は銃で撃ち、村を突き止め、食料である豚を殺す。弱肉強食を暴力に例えて。
そして彼等を家に押し込み逃げられない状況にした後、カメラを回しながら家に火をつける。
アランは夫、妻、子を亡くした人々を目の前に性行為を見せつける、気が狂ってるとだけでは言い表せない狂気が溢れて止まらない。脳の奥がぞわぞわしてくる。
"生きる為に必要な結束、それが部族"
堕胎シーン、「部族の患部は取り除く」。
あの堕さないといけない子は誰の子だったんだろうか。姦通?近親相関?ヒントが欲しい。
彼らの野蛮性が最も露呈する、最後の18分。試写室でのTV会社の人々の反応を映す事により、メタ的に視聴者の反応を投影させていると考える。
恋人を目の前にレイプ(青姦兼輪姦)する男なんて碌なもんじゃない。からの串刺しされた女を見て笑ってるアラン。
アランを食人族にあえて持って行かせるところを撮らせるマーク最高!まあ、アランが元凶だし仕方ないね。流石にやり過ぎたよ。
そしてフェイは犯され首を取られる。残りの2人も殺される、当たり前に。因果応報。
焼却処分を告げられるフィルムとTV局を後にする教授。
「真の野蛮人はどっちなんだろうな」
素敵なメロディと共にこの映画は終わる。
ただのエログロ殺人動物虐待スナップフィルムじゃない。
私は牛も豚も鶏も魚も食べるしアルコールも飲む、なんならジビエ料理が好きだ。
でも世界をみたら宗教や論理的にこれはダメ、あれはダメと禁忌や己の哲学故に特定の飲食物を避ける人々が大勢多数存在する。
人が人を食べる事は所謂、世界共通認識の禁忌だ。だからこそ我々人類はカニバリズムに深い関心を持つ。どのような味?どのような調理を?どのような人々が?どのような歴史を経て?なぜ人間を食べるように?
だからこそアラン達が亀を生け捕りにし捌くシーンを長尺だが全て映し我々に観せたのだと思う。
スーパーに並んでいる部位別にパック詰めされた肉も魚の切り身も、元々は亀と一緒で数日数時間前まで生きていた命。
それを誰かが屠殺して捌いてパックに詰めてくれたから私達は罪悪感を負う事なく産地と値段で選びカゴに入れる。
もし牛や豚や鶏が1頭1匹1羽丸々売っていて、部位別パックで買うより安い場合あなたは買って捌いて食べますか?
私は無理です。魚は出来るけど。なんでだろうね。多分、そういう事なんです。
「私は野蛮人達の信頼を得たい、彼らにも理性はあるだろう」
教授のこの言葉が最高。
少なくともアラン達には理性はなかった。
"野蛮人"が現代人にとって何を指すのか。
"野蛮人"が食人族にとって何を指すのか。
人が人を殺して生命を維持する為に食べるのがおかしいのか、人が人を殺して映像を撮り金儲けをするのがおかしいのか。
一体どっちが狂ってるのか。
食と生活と信仰の関係性は根深い。
私達は常に万人からは理解されない文化と信仰の元に生きている。