劇場公開日 1968年5月25日

「ヌードモデルと心を閉ざした若者の、壊れ易くして実らなかった初恋物語の虚しさ」初恋・地獄篇 Gustavさんの映画レビュー(感想・評価)

3.5ヌードモデルと心を閉ざした若者の、壊れ易くして実らなかった初恋物語の虚しさ

2021年12月26日
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鑑賞方法:映画館

羽仁進監督作品の初見学。この一作だけでは、羽仁監督の演出の特徴を述べることは出来ない。ドキュメンタリー映画の演出タッチは窺えるが、それ以上の個性は感じられなかった。関心を抱いたのは、この60年代後半の時代を背景とした青春映画の暗さである。個人的な子供時代に経験した世の中の雰囲気は、もっと明るく未来に対して楽観的だったはずだが、日本映画界の斜陽とリンクするかのように映画の内容も暗い。強いて挙げれば、大人と子供の間にあった価値観の相違が戦後の高度成長と共に広がり、安保問題と反戦の主張を告発した学生運動の社会的なムーブメントによる焦燥感の深刻さだろうか。若者の価値観がひとりでに大きな社会批判となり大人社会と対立して、その闘争の激しさが社会不安を煽っていた。しかし、その状況下で傍観していただけの若者がいたことも、また事実である。
この映画の主人公は高校を卒業後大学には進学せず、家業を継いで地道に生活する若者だ。だから授業をボイコットしてまで抵抗した学生運動の背景は描かれていない。それなのに暗いイメージにつながるのは、彼の中に人生の目標がなく、あくまで生きて行くだけの為に家業の仕事がある。そんな主人公の若者らしい欲望は、女性との性交渉に直結する。街で知り合ったヌードモデルの女性と連れ込み宿へいって行為に及ぶが、上手く行かない。と言うのも、彼の家庭環境の特殊性が大きく影響している。育ての両親がいて、その父親が同性愛を強いる少年期があったためである。映画は、そんな孤立した若者が公園で知り合った少女に性的な興味を抱く倒錯した世界まで描いている。この男女のセックスに到達していない若者の、欲望が彷徨う未成熟さを表現する寺山修司脚本の独特な世界観が、作品全体のイメージを構成している。それに対比させて、ヌードモデルに関わる好色な大人たちのマニアックな写真撮影を描く。理解に苦しむのは、少女役に羽仁監督が実の娘を使っていること。悪戯をされる少女にまだ性的欲求を知らない実子の配役は、表現者としての配慮なのかもしれないが、親としては大胆であろう。ラストはタイトルの地獄編を象徴するエンディングで終わり、悲劇的な若者の青春残酷劇として完結する。打ち砕かれた性の欲求の彷徨と、それでも初恋の体験に生きる意味を求めた若者の虚しさ。

  1980年 4月10日  フィルムセンター

ドラマのストーリーとは直接関係ないが、文化祭での8ミリ映画の不出来を言い訳する発表場面が可笑しかった。自分も高校生の頃から8ミリ映画を制作していたが、どうしても編集で誤魔化せない駄目なところを承知で使わざるを得ないカットがあった経験がある。素人ならではのあるあるエピソード。この登場人物には、甚く親近感を抱いてしまった。

Gustav