けんかえれじい

劇場公開日:

解説

「座頭市海を渡る」の新藤兼人がシナリオを執筆し、「東京流れ者」の鈴木清順が監督したアクションもの。撮影は「骨まで愛して」の萩原憲治。

1966年製作/86分/日本
原題または英題:The Born Fighter
配給:日活
劇場公開日:1966年11月9日

ストーリー

岡山中学の名物男南部麒六は“喧嘩キロク”として有名だ。キロクに喧嘩のコツを教えるのが、先輩のスッポン。そのスッポンのすすめでキロクは、OSMS団に入団した。OSMS団とは岡山中学五年生タクアンを団長とするガリガリの硬派集団だ。そのOSMS団と関中のカッパ団とが対決した。キロクの暴れぶりは凄まじく、この喧嘩で忽ち副団長となった。だが、キロクにも悩みはあった。下宿先の娘道子が大好きで、硬派の手前道子とは口もきけないからだ。反対に道子は一向に平気でキロクと口を聞き、野蛮人のケンカ・キロクには情操教育が必要とばかり、彼女の部屋にキロクを引き入れてピアノを練習させる始末だ。そのうえ、夜の散歩には必ずキロクを誘いだした。ケンカに強いが女にゃ弱い。キロクはガタガタふるえるばかり。この二人の道行きをタクアンが見つけたからおさまらない。硬派にあるまじき振舞いとばかり、キロクを殴りつけようとした。それと知ったスッポン先輩がかけつけて、その場は何とか切り抜けたが、キロクの道子病は重くなるばかり。その煩悩をたち切ろうと、学校では殊更暴れ廻り、配属将校と喧嘩したため、若松の喜多方中学校に追い出されてしまった。しかし、転校一日目にして、喧嘩キロクの名前は全校にひろまってしまった。会津中学の昭和白虎隊と名乗る三人組をやっつけたからだ。この喧嘩は大喧嘩に発展した。昭和白虎隊がキロクに宣戦布告をしたからだ。キロクには喜多方中学の硬派が続々と集り、決戦の場会津鶴ケ城でしゆうを決することになった。この大喧嘩は町中の評判となり、キロクは停学処分をうけた。下宿でポツンと一人で居るキロクのところに、珍客が現われた。はるばる岡山から道子が尋ねて来たのだ。感動の面持ちで、じっと道子をみつめるキロクに道子が思いがけないことを告げた。道子は長崎の修道院に入るというのだ。キロクは絶望のどん底にたたきこまれる思いだった。このつらさを忘れるためにも、もっともっと暴れまわらなけりゃならない、喧嘩しなければならないとキロクは思うのだった。

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映画レビュー

2.5"OSMS團"

2023年12月15日
iPhoneアプリから投稿
鑑賞方法:VOD

楽しい

興奮

何の為にケンカを覚えて修行する理由がイマイチ理解出来ないまま、素朴な少年、青年?を演じる高橋英樹の愛嬌あるキャラクターにハマりながらも恋愛成就しない悲恋が物語の中心にはならない寂しさに覆われながら単純な男性像と捉えてみたり!?

二・二六事件に感化され大きなケンカを求める様は不良少年漫画の先駆けか、高橋英樹が演じる男にそんな破天荒さは皆無に等しい??

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万年 東一

3.5ストーリーはあまり面白くないが、やけに印象に残る映像も複数有る不思議な映画

2023年11月19日
PCから投稿
鑑賞方法:VOD

笑える

単純

興奮

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Kazu Ann

4.0君はなぜ東京に向かう

2021年9月17日
iPhoneアプリから投稿

「杉田!東京に行くぞ!」で有名な鈴木清順監督作品。

ある少女への想いを募らせながらもキリスト教の禁欲思想に愛欲を抑えつけられた主人公麒六が、そのオルタナティブとして暴力を見出してしまう、という大筋。振りかざす拳の一つ一つが彼の射精であり、下宿先の乙女こと道子への愛慕だった。

とはいえ暴力は暴力だ。それが性的不満の発散であるという大義名分はあくまで麒六個人の内部で完結するものであり、周囲に暴力を振るっていい理由にはならない。

そこで主人公をはじめとする血気盛んな男たちは、せめてもの理論武装として「男磨き」などといった空疎な抽象論を題目に掲げるが、言わずもがな愚かしいことこの上ない。喧嘩シーンも含めて作品全体がある種の諧謔性に包まれているのは、そのような愚かしさに対する透徹したアイロニーなのではないかとも思う。

岡山を追われ会津に移住したものの依然として不毛な暴力に身を投じ続ける麒六だったが、ある日岡山にいたはずの道子が彼を訪ねてくる。彼女は麒六のことを好きだと言いつつも、俗世を捨てて神に奉仕する道を選ぶ。

これを彼女の主体的な選択と読み取ることも可能だが、私はむしろ麒六の、ひいては男たちの暴力のコードから逸脱するためのたった一つの道が修道だったのではないかと思う。恋する乙女はそれを凌駕する暴力から逃避するため、恋を捨てねばならなかった…のだと。

それでも麒六の暴力衝動に終わりはない。彼は東京で大規模な青年将校反乱事件(2・26事件)が起きたことを知るや否や、東京行きの電車に乗り込む。

もはや彼の衝動の根底に当初のようないじらしい性的不満はなく、不毛きわまる「暴力のための暴力」だけがあった。

本作の制作時代を鑑みるに、本作を来たる学生運動へのアジテーション映画として捉えることには私も正当性があると思う。しかしそこには暴力の消極的肯定だけではなく、それに加えて暴力を振るう意味についての熟考/再考を促すような寓意があるように感じる。

行進する軍人たちに蹴飛ばされ、踏みにじられた道子のロザリオが大写しにされるシーンなどは、加熱する暴力衝動の陰で被害を受ける弱者たちが存在していることをありありと示している。

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因果

3.5その後の学生運動のエスカレーションへのアジテートであったのではないか

2019年9月30日
Androidアプリから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

舞台は昭和10年1935年の岡山と会津
この翌年日本では二二六事件、ドイツではラインラント進駐があった
戦争の様相を強めていく直前の最後の平和な時代
監督は原作小説を単なる戦前の学生の青春物語ではなく、当時の青春模様と1960年代の学生運動をリンクさせたアナロジーとして映画に仕立てたように感じる
けんかは当時の学生運動の暴力肯定の方向性に繋がる表現なのではないだろうか

校長先生が言う
人生には後で考えれば馬鹿馬鹿しいと思うが、その時には命を張ってやることがある
それが男だ
学生よりもまず男だ
男らしくだ

本作公開の1966年は60年代の学生運動が激化していくその発端となった年だということは頭に入れておきたい

駅に向かおうとする道子が雪中に行軍する兵隊達に翻弄され、落としたロザリオを軍靴に踏みつけられてしまうシーンは、戦後の民主化へのと非軍備化に逆行しようとする当時の社会や政治の逆コースと呼ばれたの動きの暗喩だろう
そして二二六事件の思想的首謀者としての北一輝との対決を予感させてのまるで続編に続くかのように唐突に終わるラストシーンは、その後の学生運動のエスカレーションへのアジテートであったのではないかと思わせる
つまり、この先の戦争への逆コースを進もうとす者達にけんかを仕掛ける物語は君たちや私達が紡ぐのだという監督の主張であったのだと思う
暴力的な学生運動を肯定し焚き付けたのだ
それが本作の本当のテーマなのだと思う

映画としてはところ処でハッとする映像表現に出くわす
例えば主人公に岡山からわざわざ修道院に入ることを告げに来た道子と障子越しに手を繋ごうとするシーンだ
障子を貫き破いて主人公の指が彼女の指先と触れるシーンは、処女喪失の破瓜そのものを象徴するエロチックなシーンであった
しかしそれは本作を観る意義の一部分だろうと思う
やはり本作は政治的なアナロジーを意図して撮られた作品として捉えなければ、あまり意義も意味も感じられない

果たして本作公開の2年後には鈴木清順解雇・封鎖事件が起こる
難解でかつ政治的だということで日活を解雇され作品を封鎖されたことに対して、裁判で対抗するに当たり監督本人の個人的問題とだけに留まらず当時の政治的な闘争の色彩を帯びていく事件だ

21世紀から振りかえってみれば、本作はこの事件を経たことによって神格化され、その内容を超えて評価さているのでは無いだろうか?

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あき240