劇場公開日 1956年7月12日

「「水の中のナイフ」を先取り」狂った果実(1956) よしたださんの映画レビュー(感想・評価)

1.5「水の中のナイフ」を先取り

2017年8月31日
PCから投稿
鑑賞方法:CS/BS/ケーブル

興奮

 武満徹の音楽、波に揺れるヨット、泳ぐ美女、危険な匂いのする若者。ロマン・ポランスキーの「水の中のナイフ」を彷彿とさせる。
 もちろん、この「狂った果実」のほうが先に作られた作品である。ポランスキーが「狂った果実」参考にしたかどうかは分からない。しかし、成瀬巳喜男の「流れる」と同年の作品とは思えないくらい、この「狂った果実」は現代的な視点を先取りしている。
 東京・隅田川には滅びゆく花柳街がまだ残る一方で、横浜や湘南にはアメリカナイズされた若者たちの風俗が現れているのだ。
 太陽族が岡田真澄の家にたむろし、大人たちを批判する言葉を続けていくシークエンスは、原作者・石原慎太郎の思想そのものを耳にねじ込まれるようだ。しかも、俳優たちの滑舌の悪さも手伝って、一刻も早く終わって欲しかった。
 しかし、彼らの希望無き欲望を描くこの映画の側面を伝えるのに必要であることは理解できる。
 戦争が終わって十年ほどしか経っていないが、物質的に豊かであり、なおかつ思想・行動が大人たちから自由な太陽族。湘南の海を舞台に繰り広げられる若者たちのこのような物語は、ここから現在に至るまで基本的に変わることなく繰り返されている。
 例えば、石川慶監督「愚行録」においても、金持ちの子弟たちが海辺の別荘を舞台に奔放な行為を繰り返す。
 そこで傷つくのは「狂った果実」の津川雅彦と同様の生真面目な人物である。彼らは、自らが連中に受容されたと束の間錯覚するが、結局はアウトサイダーでしかないことを思い知らされる。
 そして、所詮その核心には触れることの出来ない者の彼らに対する酷い復讐もまた同様なのである。

佐分 利信