劇場公開日 2006年12月9日

「戦争は人間の顔をしていない」硫黄島からの手紙 因果さんの映画レビュー(感想・評価)

3.5戦争は人間の顔をしていない

2023年2月1日
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戦争がなぜ不条理かといえば、そこでは述語がほとんど機能しないからだ。誰がどういう人間だとか、どういう出自を持っているかとか、そんなことは微塵も考慮されない。肌の色がどうとか、勲章の数がどうとかいった物理的な事実だけが絶対的権能を有している。

本作において頻発するコテコテのフラッシュバック描写は、軍人たちが皆それぞれに固有の過去を背負っていることを示す。単に郷愁や感傷を掻き立てるためではない。それらは戦火の中で否定され、焼け爛れ、やがて判別不能の灰燼となって中空に霧散する。彼らの想いはどこへも通じない。彼らの過去が饒舌に緻密に語られれば語られるほど、その絶望的なまでの不通性が強調される。戦争は人間の顔をしていない。

日本軍の描き方について、本作は安直なステレオタイプに陥っていないと感じた。特に、栗林中将と西郷一等兵の関係は「戦争映画」によくあるナショナリスティックな同胞意識とは一線を画していたように思う。

西郷はのっけから日本軍に不信感を抱いており「俺たちはどうせ死ぬんだ」というシニシズムに浸りきっている。それを見透かされてか上官から過酷な肉体労働を強いられていたところ、島に上陸したばかりの栗林の鶴の一声でその苦役を解かれる。

栗林は体罰やバンザイ突撃といった無意味な根性論的行動に対して懐疑的だ。窮状にあってもあくまで現実主義的に作戦を展開する。軍の中には彼の進歩的なやり方を「生温い」と非難する声も多かったが、西郷は次第に彼への尊敬の念を強めていく。

とはいえかつて駐在武官として欧米人との交流を深めてきたという栗林のキャリアを鑑みれば、彼の「進歩的」性格は、そのまま「欧米的」性格とも換言できる。そしてそこへ反日本軍的な西郷が憧憬の眼差しを送る。という図式は、結局のところ欧米的価値観を頂点とした史実の恣意的な読み換えに過ぎないのではないか。

この読みは安直だろう。栗林は「作戦を実行する」という物理的次元においては確かに欧米流の進歩的性格を有していたが、「戦争に臨む」という精神的次元においては、古臭く強固なナショナリズムに浸りきっていた。欧米の要人との会合で「それは君の信念か?それとも君の国の信念?」と尋ねられて「どちらも同じでしょう?」と返すシーンは印象的だ。彼は表層と深層で真逆の極を持つ人物だといえる。

また、西郷が栗林を慕うのは、彼の強靭なナショナリズムに思わず愛国心が萌したからではない。西郷は最後までバンザイを叫ばない。自決もしない。「日本軍」なるもののために命を捧げることを最後まで拒絶する。

彼はもっと素朴で人間的な恩義から栗林を慕っていたのだと私は考える。あらゆる述語が失効する戦争という空間において、なお優しく手を差し伸べてくれる栗林という存在、それは実際に見たことも触れたこともない「天皇」や「国家」よりもよっぽどアクチュアルに西郷の心を打った。彼はそんな栗林の個人的な優しさに対して個人的に報いるため、戦地へ赴くのだ。

栗林の遺体からコルトM1911を盗んだ米軍海兵に対して西郷が狂ったようにスコップを振り回すシーンは美しく切ない。西郷の命を顧みない恩義の発露に対し、米兵たちはうんざりしたような表情を浮かべる。極東の猿の考えは理解しかねる、といった具合に。彼らには西郷のごく個人的な怒りと悲しみは伝わらない。彼らは「日本軍」というフィルターを通じてしか日本人を見ることができない。

むろんそれは日本兵たちも同じだ。彼らは「鬼畜」と呼んで忌み嫌っていた米兵が、自分たちと同じように故郷を持ち、家族を持ち、優しさを持っていることを知って当惑していた。

両軍のギャップは永遠に埋まらない。戦争が終結しない限りは。

繰り返すようだが、戦争においては述語はほとんど機能しない。人が人を殺すためには、相手が人間であることを絶対に認めない必要があるだろうから。ナショナリズムとアドレナリンの美酒が効いているうちはそれでいい。極東の猿でも鬼畜米兵でも好き放題に殺しまくったらいい。

しかし酔いが覚めたとき、彼らはふと気が付くことになるだろう。己の撃った銃弾が、己の胸を貫いていることを。

因果