劇場公開日 1983年

「弁護士としての矜持と、法律の根底にある「正義」を実現するという陪審員(素人)の役割」評決(1982) talkieさんの映画レビュー(感想・評価)

4.0弁護士としての矜持と、法律の根底にある「正義」を実現するという陪審員(素人)の役割

2024年4月30日
PCから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

<映画のことば>
「あきれたね、あんたらは、皆おなじだ。医者も弁護士も『私に任せておけ』と。
しくじると、こう言う。『ベストを尽くした。許してくれ』と。
その始末を一生負わされるのは、俺たちだ。」

ゲームセンターで、ビールを飲みながらフリッパーピンボールで遊んで時間を潰し、不慮の事故で亡くなった故人の葬儀会場に押し掛けては、名刺を渡して、仕事の依頼をそれとなく勧誘するー。

おそらくは、弁護士資格を取得して開業したばかりの頃は、野心とやる気とに溢れていたことでしょう。有名弁護士事務所の「汚いやり方」に、いわば嵌(は)められてしまうまでは。
そんなこともあって、すっかり嫌気がさしてしまっていたのかも知れない。おそらくは、志を持って就いたはずの弁護士稼業に。

一方で、クライアントにしてみれば、もちろん、〈映画のことば〉の通りだろうと思います。評論子も。

ただ、医療の世界では、夢の抗菌薬・ストレプトマイシンが開発される以前の結核は、不治の病とされ、そのサナトリウム(療養所)の玄関前には「時に癒し、しばしば支え、常に慰む」と記(しる)された碑(いしぶみ)があったと聞きます。
結核が不治の病とされていた当時の医師として、患者を支え、慰めること。それができることのすべてだったのでしょう。

同じように、いかに法律家といえども、法令を適用して一刀両断に問題を解決できることは稀で、多くは自分の権利実現をめざして戦おうとするクライアントをしばしば支え、すぐには結果が出ずに、気弱に落ち込むクライアントを常に慰めているのが、偽らざるところでしょう。
「医師は、漆黒の闇夜に荒波の中を、患者と二人で、一筋の光明を求めて、小さな船で航海するようなものだ。」という現役の医師から聞いた(読んだ)言葉も、おそらくは、同旨のことを言うものなのだと思います。

冒頭の〈映画のことば〉をクライアントの夫に言われたときも、ギャルビン弁護士の胸中には、この思いが去来していたはずですけれども、片言たりとも反論せず、気持ちを胸中にだけ納めていたであろう彼の姿は、弁護士としての矜持が、まだ彼に残っていたことの証左だったと理解しました。評論子は。
そして、言葉で反論する代わりに、ギャルビン弁護士は(日本の弁護士であれば、弁護士会から懲戒処分を受けるような)「思い切った行動」に出て、事件の展開につながる決定的な資料を入手する―。

その彼の想いを思うと、秀作であったと評することができると思います。本作は。

(追記)
陪審員は、どうして、あの評決に至ったのでしょうか。
(むろん、だから本作の邦題が「評決」になっている訳ですけれども。)

陪審員は、法律の素人ではある…、否、法律の素人であるからこそ、技術的な法律論よりも、法律の根底にあるべき「正義」を真正面から見据えて、自分たちの判断のものさしをそこに求めたということなのかも知れません。
そして、それが、裁判に市民感覚を盛り込むという、陪審制度そのもののあるべき姿なのかも知れません。

そういう意味では充分に「cinema de 刑事訴訟法」、「cinema de 憲法」の要素もあった作品だったとも思います。

(追記)
作品の本筋ではないのかも知れませんけれども。裁判長のあの訴訟指揮は、絶対にヘンだなぁと思いました。評論子は。
いや、それは、評論子がアメリカ民事訴訟法に疎いが故なのかも知れませんけれども。

しかし、一般に「コピーに証拠価値がない」と言われるのは、ふつう、コピーは、真正に成立している原本の正確な複写である確証がないから。(何らかの意図的なマスキングかがされている可能性が常に払拭できないから。)

しかし、本件の場合は、原本の成否・存在がが争われているわけではなく、原本が存在することを前提として、その真偽(後日・後刻の変造の有無)が争われているわけです。
そうであれば、原本が変造される前の状態のコビーは、もはやコビーではなく、変造前の原本の内容を証明する、それ自体が、言ってみれば「原本」そのものだったはずです。

そうすると、作中で引用されていた判例には抵触しないこととなりますけれども(最高裁が判決文などでよく使う言い回しを流用すれば「被告が引用の判例は、事案を異にし、本件に適切でない」ということ。)

評論子には気になってしまったのですけれども。
しかし、映画作品としての本作がおかしいとかいうつもりでは、ありません。その点、念のため。

talkie