劇場公開日 2021年1月29日

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「クローネンバーグ流フロイト論」クラッシュ(1996) pipiさんの映画レビュー(感想・評価)

4.5クローネンバーグ流フロイト論

2021年3月3日
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鑑賞方法:映画館

怖い

知的

難しい

まず、見終わって非常にホッとした。怖いシーンも気持ち悪いシーンも無かったからだ。ホラー映画愛好家以外の幅広い層にも間口を広げておいてくれたらしい。
また、ポルノグラフィーとは違い、観客のセクシャリティーを刺激するようなシーンも無い。共感しにくいように演出されていると思う。
それによって銀幕は「人間の慾動を観察・分析する為の実験室」と化す。観客は、スクリーンというマジックミラーを通して、被験者達の行動や反応を観察出来るのだ。

本作を視聴するにあたっては、フロイトの「快感(快楽)原則の彼岸」を一読しておくのがお勧めだ。(本作に共感してしまった人も、サディズム・マゾヒズムの節にて納得&安心出来ると思う。)

フロイトは、人間の精神活動の大半は快感原則に従っているとみなした。快感原則とは苦痛を回避して、少しでも快の感情を求めようとすることをいう。
しかし、第一次対戦後、反復強迫に悩む患者を多数診察する事によって「人間には不快極まりないとわかっていることへ敢えて向かう執拗な傾向がある」という事を発見し愕然とする。
フロイトはこれを「死の慾動(タナトス)」と呼んだ。生命以前の、無生物の状態を回復しようとする慾動だ。
それに対して、生命体を保存し、より大きく統合しようというのが「生の慾動(エロス)」だ。

また「性慾動(リビドー)」はエロスに属す強いエネルギーだ。リビドーは他の欲求に変換可能である。
例えば露出慾が自我によって社会的に問題ない形に中和すると名誉欲に変換されて大きな仕事を成し遂げる事もある。支配慾が己自身に向かうと厳格な自己抑制となって優れた倫理観を獲得出来たりもする。
芸術や科学など文化的活動はリビドーが自我によって防衛され変形したものだ。とすれば人の多彩な活動の根源的エネルギーは性慾動だと言える。
(後にユングは、リビドーを「すべての本能エネルギー」の事とした。)

我々の五感は特定の刺激作用を受容するが、過剰な量の刺激に対してはその一部のみしか取り込まないようにして精神を守る防衛機能もある。
この防衛機能があまりに強力な刺激によって破られると精神はみずからが崩壊することを防ぐため、全力で刺激を食い止めようとエネルギー(=リビドー)を備給する。

本作では、自動車での危険走行により精神が生(エロス)と死(タナトス)の境界線に限りなく近づく可能性を描いている。
交通事故という許容限度を超えた不快により、精神は崩壊を防ぐために強い性慾動を発生させる。エロスやリビドーは緊張状態を生むが、この緊張が解除される時に非常に大きな快をもたらす。その大きな快に向かう為に敢えて強烈な不快を選択する精神の状態こそ「反復強迫」であろう。
生の慾動は「他との融合」を求める。
精神的崩壊を招くほどの過剰な刺激であれば肉体自体の性別など問題にならぬであろうし、更に無機物との融合ならばエロスとタナトス融合の境界線へ迫る強烈なリビドーが備給されるであろう。
そして反復強迫が快感原則に勝るのはタナトスがエロスより更に根源的だからだとの仮説が導かれる。

ラストシーンはチベット密教の合体仏や歓喜仏のイメージが重なった。シャクティと呼ばれる力もリビドーと同一か近いものを表しているのかもしれない。

ここまで反復強迫に迫った作品は、本作を除けば「禁じられた遊び」くらいであろう。本作と対象的に純粋無垢な子供達が主役である事も興味深い。
平和な世の中であれば、許されざる危険行為である暴走事故に匹敵する精神状態が「日常」になってしまうのが「戦争」だ。
本作「クラッシュ」に不快感を覚えるならば、決して再び戦争を起こしてはならない。
「愛のロマンス」の美しく物悲しいクラシックギターソロと、ハワードショアのこれまた美しくも不気味さを孕んだエレキギターアンサンブル&金属系パーカッションも好対象である。

pipi
talismanさんのコメント
2021年3月3日

pipiさん、コメントありがとうございます。見たかった映画を心おきなく映画館で見られるのはとても幸せだと、私も思います。ありがとう。

talisman
talismanさんのコメント
2021年3月3日

納得のレビューでした。特に戦争関連のくだりは、強く同意いたしました。

talisman