コラム:二村ヒトシ 映画と恋とセックスと - 第32回
2025年3月27日更新

作家でAV監督の二村ヒトシさんが、恋愛、セックスを描く映画を読み解くコラムです。今回は若きストリップダンサーの女性が、大都会ニューヨークで自らの力で幸せを勝ち取ろうと奮闘する姿を描き、2024年・第77回カンヌ国際映画祭でパルムドールを、第97回アカデミー賞では作品賞や監督賞、主演女優賞など5部門を受賞した「ANORA アノーラ」の、若き登場人物たちの心情を考察します。
※今回のコラムは本作のネタバレとなる記述があります。
「ANORA アノーラ」傷つくことをやめたら生きていけないアニーとイゴール、親の支配下でしか生きられないイヴァン、それぞれの心

(C)2024 Focus Features LLC. All Rights Reserved. (C)Universal Pictures
ネタバレありで、というよりネタバレ以外のことは書きませんので、ぜひ「ANORA アノーラ」をご覧になってからお読みください。
僕は「ANORA アノーラ」を最後まで観て、これは二つの心をもった人間を描いた映画だという感想をもちました。二つの心というのは、一つは自分自身や他人の心の痛みを感じる心、もう一つは心の痛みをなるべく感じないようにして自分を守っている心です。
イヴァン(マーク・エイデルシュテイン)という子はお金は親の金だけどいくらでもあるし顔はいいのに、本当にセックスがヘタクソでしたね。そして知り合ってすぐの頃のアニーことアノーラ(マイキー・マディソン)は、イヴァンの雑な、せわしないセックスに文句を言いませんでした。まあ、お客だからなんですけど。
アニーの心は、つまりアノーラという女性がアニーという名で生きているときの彼女の心は、いわゆる太客(ふときゃく)であるイヴァンのヘタクソな、大切にあつかってくれないセックスごときでは傷つかないのです。

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僕は、タフなアニーがアノーラの心の仮面、営業のために自分を偽っている顔だとは思いません。どちらも彼女の本物の心だと思いますが、アニーに守ってもらってなかったらアノーラの心はズタズタになって生きていくことができないでしょう。
しばらく経ってアニーとイヴァンの距離が縮まって、彼女はイヴァンとの十何回目かのセックス中に初めて、ゆっくり動こうよと提案します。もしかしたら彼女の中でアニーによる防衛が少しだけ解けて、アノーラというもう一つの心が少し動いたのかもしれない。
そしてイヴァンは今まで誰からも、そういうことを言ってもらったことがなかったでしょうね。お金が沢山ありすぎるということは、みじめなことです。お金がないことのみじめさとはまた質の違うみじめさです。

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ただ、イヴァンみたいなドラ息子じゃなくてもセックスがヘタな人は沢山いるでしょう。太客とセックスワーカーの関係じゃなくても、普通の彼氏と彼女の関係でも夫婦の関係でも、たとえば「もうちょっとゆっくり動いて」と相手に提案したくても怖くてできないという人も沢山いるでしょう。まあ本人がそれでいいんだったらそれでいいですけど。
イヴァンは子供です。自分が両親に完全に支配されてる現実を思い出すと、酒と薬物に溺れて、アニーに対しての罪悪感を自らシャットダウンします。そうするしかありません。イヴァンはアニーのような強い心を持ちあわせていませんから。

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ロシアに連れ戻されてから彼はどうなるんでしょうね。生きていかねばなりませんから少し大人になって、痛みを感じないもう一つの心を得るのかもしれませんね。そうすれば昼間は父親の会社で働けるでしょう。けれど夜になると子供のイヴァンの心が動き出して罪悪感と後悔でいっぱいに満ちて不眠になったり、また大量の酒や薬物で子供の心を麻痺させておかないと翌日は大人として働けない、そんな毎日になるかもしれません。そうなると彼のニつの心は彼自身を守るというより、彼の体を蝕(むしば)んでいくことになるでしょうね。

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アニーに鼻の骨を折られた相棒のために、イゴール(ユーリー・ボリソフ)は家から痛み止めの錠剤をさっと持ってきます。劇中で詳しくは語られませんが、無口で無骨なイゴールという男も自分の心の痛みをやわらげるために普段あの薬を常用してるということなんだろうなと僕は思いました。彼の心はアメリカに来るまえに故郷ですっかり傷つけられていて、その痛みがずっと続いているのかもしれない。あるいはこの土地でチンケな暴力を振るって小銭を稼いで生きている自分に、ずっと傷ついてるのかもしれない。
でも仕事を辞めたら、つまり傷つくことをやめたら生きていけない。それはアニーと同じです。それからアニーやイゴールと比べると一見ケタ違いに恵まれているようですがイヴァンだって、親に支配されていることをやめたら生きていくことができない。

ショーン・ベイカー監督は、ものすごいクリエイターだと思います。物語のために登場人物を使わない。彼は自分が創造したキャラクターたちを映画の観客である我々が「かわいそう」だとか「どうしようもない奴だ」とかジャッジすることを許しません。アノーラもイヴァンもイゴールも、我々そのものだからです。
終盤の、主がいなくなったイヴァンのお屋敷での、それぞれの名前についてのイゴールとアニーの雑談と憎まれ口。ここ、本当に素
晴らしいシーンです。
アニーはアニーであるとき、つまり自分の魂を傷つける仕事をしているとき、アノーラという美しい意味をもつ名を名乗りたくない。アニーという意味のない名前でいたいのです。

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その切実さに比べるとイゴールは呑気です。彼に言わせるとイゴールとは戦士の名です。彼はチンピラとして生きているとき、自分の名前に小さな誇りを守ってもらっているのかもしれません。イゴールは男ですね。薬で抑えているのもあると思いますが、自分の痛みのことがよくわからなくなっちゃっているのが、強い男です。
そんなイゴールに、アニーは容赦がないです。「イゴールって使用人の名前でしょ」と痛烈です。
この痛烈さ、例えるなら(いま思いついた例えなので、あんまり適切じゃないかもしれないけど)あなたが合コンの席で社名入りの名刺を配ったとします。あなたの会社は大企業で、あなたはそこにプライドがあるわけです。なんなら自分はビジネスの戦場で戦ってる戦士のつもりです。ところが初対面の可愛い女の子から「あ、資本主義の使用人ですね」と言われたみたいなものです。

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女であるアニーは、男であるイゴールに「あんたは力は強いかもしれないけど、人からの命令に従ってその力を使ってるだけだよね。自分の倫理じゃないよね。イヴァンと同じだよ」と言っているのです。
アニーは何に怒っているんでしょう。もちろんイヴァンには怒ってるんですけど、八つ当たりだけじゃないと思います。イゴールがアノーラという名前について聞いたふうなことを言った仕返しでしょうか。イヴァンとの関係についてイゴールに同情されたように感じたからでしょうか。
アニーは多分「かわいそう」とか「俺はお前のことをよくわかっている」とか思われることが、いちばん嫌いなんでしょう。
だからこの映画は、観客にそんなふうに絶対に思わせないように作られています。僕も、わかったようなこのコラムを書いたことでアニーに怒られて嫌われます。

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ラストの場面。そんなアニーは車の座席で、指輪の返礼としてイゴールにまたがりました。借りを作りたくないし、自分がイゴールに返せるものはセックスだけだと思っているからです。
彼女はまたがったままイゴールを抱いて少し動いて、そして自分が泣いていることに気がつきました。泣いていたのはアニーではなくアノーラです。
筆者紹介

二村ヒトシ(にむらひとし)。1964年生。痴女・レズビアン・ふたなり・女装美少年といったジェンダーを越境するジャンルで様々な演出の技法を創出、確立したアダルトビデオ監督。
著書『あなたの恋が出てくる映画』 『なぜあなたは「愛してくれない人」を好きになるのか』 共著 『日本人はもうセックスしなくなるのかもしれない』 『欲望会議 性とポリコレの哲学』ほか多数。
Twitter:@nimurahitoshi