やあやあ我こそは原作をコバルト文庫で途中までリアタイしてた読者なり。
30年経ってドラマ化が発表された時は本気で意味がわかんなくて混乱しましたが、どうやら現実だったみたい。。なんで時代でしょう。
「グラスハート」は、作者の若木未生が代表作である「ハイスクール・オーラバスター」とか「イズミ幻戦記」などをヒットさせた後に発表したタイトル。超能力もSF要素もない、本人のロック好きが発揮されたシリーズ。私は文体が好きで当時刊行されてたところまでは繰り返し読んだ記憶がある。
今回なぜかあの佐藤健が原作ファンで陣頭指揮とって7年かかって映像化したというにわかには信じがたい経緯…しかし佐藤健に原作をお届けしたのは誰なんだろう。。
ドラマとしてはツッコミどころが多々あるけど、今でいうラノベだし、青春ものだし、気恥ずかしい要素もあるので、この程度で済んでむしろセーフ、とも言える。
そもそも日本の音楽をめぐる状況が当時と今ではあまりに異なる。
あの頃はギターロックが大人気だったけど、今やブラックミュージックをベースにした音楽が当たり前だし、アイドルが普通にラップやヒップホップをやる時代。逆に高校生がギター弾いたりバンド組むことは激減してしまった。一方、ネット環境さえあったらどこの国の何歳でも1人で自分の音楽を発表できる。廉価なDTMツールが普及し米津玄師が引っ張りだこになる時代。
これはさすがに前提となる状況の変化が激しくて、そのまま置き換えるとかなりの無理が生じる。
たとえば90年代当時はプロデューサーブームだったけど、現在は劇中の藤木直人のように権威あるプロデューサーでも、たった1人では藤谷のバンドを邪魔してきて大変、みたいな話が成り立たたないと思う。
そしてここから本題ですが、「ロック界のアマデウス」は単に藤谷個人に対する賞賛じゃなくて、この作品全体を牽引する構造なんだってこと。
なぜ藤谷のオーバーワークが重大な問題になるのか、それは元ネタが「アマデウス」だからだ。なるほど理解しました。
先日たまたま4kレストア版を観たおかげで気づいた30年後の答え合わせ。
「アマデウス」は84年公開で、当時だいぶ流行ってたみたいだし、タイミング的にヒントになっても不思議じゃない。
だから藤木直人の立ち位置は「ロック界のサリエリ」であり、全体を通して音楽の才能と嫉妬をめぐるストーリーなのも元ネタ由来。そのため、実写化でも彼の存在を削ることができなかった。だからといってキツさは解消されないですけど…
あと「アマデウス」にもモーツァルトをサポートしてくれる楽団は出てくるけど、あくまで主人公はサリエリだし、強烈な対比が弱まってしまい、藤木直人の存在にそこまでの脅威も感じられなかった。モーツァルトが仲間たちの力でサリエリに屈しなかった場合エモいかどうか問題。
劇中バンドのキャスト陣はそれらしい雰囲気を醸していたが、坂本役の志尊淳は逆に美しすぎた。原作では「のび太くんみたい」とか書かれてたのにメガネ越しでも伝わる圧倒的なオーラ。佐藤健がもともと志尊淳と親しく、さらに戦略的にもイケメン3人の存在が重要ってことで確信犯のキャスティングだろう。結果、それなりに注目を集めたわけでマーケティング的には正解だろうけど、原作の読者からすると、これってグラスハートなの?っていう手ごたえもあり。結局は主演・佐藤健で佐藤健のためのドラマだった気がする。
あとは山田孝之と菅田将暉の「ディーリー」コンビが客演ポジションでいい仕事していった。山田孝之のライブシーンは堂に入ってたし、菅田将暉はめちゃくちゃ気合い入ってた。レイニとのコンビも凸凹感あってよかったなぁ。