芦田愛菜の唐突な作品案内に始まり、特に脈絡のないさまざまな質問に山田孝之が答えていくというただそれだけの映画。『リアリズムの宿』の頃を彷彿とさせるようなオフビートな文調で問答が進んでいく一方、背景のイメージ映像はパワフル&誇張的&先走り気味で、要するに物語(と呼んでいいのやら…)と歩調が全く合っていない。
物語と演出のこのフザけた不和はフィクションとドキュメンタリーの壁をも次第にぼやかしていく。最後には山田本人がカメラに向かって「全部ウソ」とシニカルに笑いかけ映画が終わる。こういうオチのつけ方は評価が分かれるところだが、本作に関していえば私はけっこう気に入っている。
私はそもそもドキュメンタリーとかノンフィクションとかいったスタイルそのものに懐疑的だ。撮影・編集という恣意的操作が含まれている以上、それは現実の真摯な転写などでは決してない。そこにはフィクション同様に虚実が入り混じっている。
本作が目指したのはそうした神話性の解体だったのではないかと思う。リアルとフェイクを明確に分けることは誰にもできないのだという。いや、むしろリアルとフェイクを徹底的に混同することで、そういった二元論の先に実体のあるリアリティーが顕現するのではないか。
本人直々に「全部ウソ」と棄却された物語だが、たとえば沖縄の実家跡地でかつて存在した家庭の温かみを追憶し、涙を流す山田には、演技を超越したリアリティーが宿っていたように思う。思えば「全部ウソ」という山田の言葉も、自分が思わず泣いてしまったことに対するある種の照れ隠しだったのかもしれない。
リアルとフェイクという表層の対立に惑わされず、その奥でふと生じる燐光を見逃さないこと。映画の楽しみとは元来そういうものではなかったか。あるいはそうした映画の不可避的なフィクション性を再認することで、はじめて「ドキュメンタリー・ノンフィクション映画」は可能になるのではないか。
反ドキュメンタリーでありながら同時にドキュメンタリーの新たなあり方をも提示する野心作だった。