パワー・オブ・ザ・ドッグのレビュー・感想・評価
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男性器というモチーフを駆使して西部劇を解体。
知性も感性も豊かながら、歪んだマスキュリニティにとらわれた男がたどる、奇妙な悲劇であり、西部劇に多く出演してきたサム・エリオットが「(男性ストリップショーの)チッペンデールかと思った」と嫌悪感もあらわに揶揄したことで批判を浴びたのが記憶に新しい。
ジェーン・カンピオンという映画作家は直接的にも隠喩としてもセックスに執着があって、この映画でも男性器を匂わせる描写がそこかしこに登場する。おそらくサム・エリオットはそういう部分に敏感に反応したのだろうと思われるが、実際に「そういう話」を「カンピオンらしいあからさまさ」で描いている以上、当然出てくる反応だったのではないか。そして、その執拗なほどの性の匂いへの執着が、映画がテーマやメッセージ性に縛られるのでなく、原作にあった匂いをさらに増幅させた個性を獲得させているのだと思う。
ややこしい書き方になったが、わざわざ数えてみたところ、直接的にせよ隠喩的にせよ、男性器を思わせる描写は27箇所あって(全部が意図的でないにせよ)、これってかなりの数である。その過剰さこそがこの映画の面白さにつながっており、過去にも作られてきた「同性愛的視点から西部劇を描き直す」系の中でも異様な迫力を伴ったのではという気がしている。ヘンな映画なんだけど、目が離せない。
緊張感を誘発するカンバーバッチの存在感
ジェーン・カンピオン監督に第94回アカデミー賞で女性としては史上3人目となる監督賞をもたらした力作。主演にベネディクト・カンバーバッチを迎え、1920年代の米モンタナ州を舞台に、無慈悲な牧場主と周囲の人々との緊迫した関係を描いた人間ドラマだ。
とにもかくにも、大牧場主のフィルを演じたカンバーバッチの緊張感を伴う繊細な存在感が、観る者の視線を釘付けにしてしまう。興味深いのは、西部劇というフォーマットを使いながらも、根底に流れている作品のメッセージは現代を生きる人々の心の裡と乖離していないという点だ。
サスペンス的な要素もふんだんに盛り込まれており、これから鑑賞しようとしている方々に対しても、十分に期待を裏切ることがない展開が用意されている。
Slow Minimalist Film that's Inviting to Watch
The Power of the Dog is a much-needed cinematic meditation designed by Jane Campion, a classic female director who has been out of the chair for over a decade. As in The Piano, the film explores the mysterious side of human sexuality. As homoerotic as it may be, the film overall lets the viewer reflect on what shirtless cowboys could mean. Challenging, poetic films are a rare gem from Netflix.
何かに憑かれたようなカンバーバッチの眼差し
1925年のアメリカ、モンタナ州で大牧場を支配しているのは、西部男のエッセンスをぎゅう詰めにしたようなマッチョで頑固なフィルだ。しかし、フィルにとって最も近しい存在だったはずの弟、ジョージが、食堂の主人、ローズと結婚することになり、兄弟の関係は軋み始め、やがて、とんでもない方向に展開していく。
フィルはその男性的な風貌や価値観とは裏腹に、実は東部出身のインテリで音楽の才能もあること、男らしさを強烈に発散している反面、ある秘密を隠していること、などが、ローズと、そして、彼女が連れてきたか細くて女性的な雰囲気を漂わせる息子、ピーターと出会ったことで、徐々に解き明かされていくのだ。
多少勿体ぶった描写はあるものの、話の展開はスリリングで心理サスペンスとして目が離せない緊張感が続く。マッチョの象徴だったフィルが少しずつ素顔のベールを脱いでいく一方で、ピーターが隠し持っていた気骨を徐々に露わにしていくプロセスは、何かが起きそうな気配がしてドキドキする。
ジェーン・カンピオンは今の時代に通じる男性性のまやかしを西部劇のフォーマットを使って訴えかけているようだ。でも、筆者は自分らしくない人生を選択してしまったフィルの悲劇性にも心を突かれた。演じるベネディクト・カンバーバッチが何かに憑かれたような男の眼差しをカメラに向かって投げかけ続けるからだ。最近のカンバーバッチは絶好調だが、本作はその中でもベストだろう。
☆☆☆★★★ ネタバレをする気はさらさらないのですが。この作品に限...
☆☆☆★★★
ネタバレをする気はさらさらないのですが。この作品に限っては、何を書き込んでも。万が一、未見の人の目に止まってしまうと。感の鋭い人だと、何となく気が付いてしまう恐れがあるので。この先少しだけ行間を空ける事にします。
後数分で上映終了〜と言えるその直前まで…
「…これって一体なんだったんだ!」
真剣にそう思っていたその直後、画面に映った場面を見た瞬間に、、、
「嗚呼!そうゆうことだったのか〜」…と。
それまでの疑問点がそっくり氷解したのだった。
それにしても実に意地悪である。
何しろ一切の説明をしてくれないのだから。
本来ならば、登場人物達の台詞であり行動には、ある程度は場面場面での前後に、観客を意識しての多少なりの説明は必要であるのに…
それが一切ない為に。本編中の謎は、謎が謎を呼び、更なる謎が増幅する。
正直言って「う〜ん!映像や演技等、何から何でも良く出来てるのに何でこうも不親切なんだろうなあ〜!」
…と思っていたところでの出来事だっただけに本当にビックリした。
…と同時に「成る程!」と、一気に憑き物が落ちた。
もしも観客に説明的な台詞やショットを挿入してしまうと、この驚きには繋がらないのだな…と。
ほんの一瞬映るクローズアップであり、小道具等。如何にも「コレは何か理由が有って撮ってますよ!」…と言った編集のショットが一切ない。
もしもそれらが映る映像を、後1秒程度長めに編集していたとしたら…
途中で少しでも意味ありげなショットだと観客に意識されてしまったならば、最後に「そうだったのか〜!」と言った思いには至らなかったと思う。
…と書き込んでみたものの、「じゃあもう一度最初から」とはなかなかな行かないんですよねえ。
何しろ、鑑賞前は「何だか評判高いみたい。でもあんまり好きな監督じゃあないのが、、、」だっただけに💧
案の定鑑賞中は「どうなんだコレ!」と思う時間がかなり長かったのよねえ〜(´-`)
取り敢えずはジャンル分けをするとサスペンスにあたるのでしようね。
見た目だけだと西部劇の様に見えて、実はゲイ映画としての側面もあり。心理戦が前面に出た地味目なところも、大衆性に趣きを置く賞レース等ではどうなるのだろう?
2022年1月14日 キネマ旬報シアター/スクリーン1
母を守るために
リーダーシップはあるが、粗野で横柄な牧場主フィルと、親切だが口下手で鈍感な弟のジョージ。
彼らは牧場を引き継いで25年になるらしく、フィルは今でも牧場を引き継いだ時の恩人である亡きブロンコ・ヘンリーという馬乗りを崇拝していた。
ある日フィルは仲間を連れて一件の食堂を訪れる。そこは未亡人であるローズとその息子ピーターが二人で切り盛りしていた。
女性のように繊細なピーターをフィルは散々馬鹿にする。
その様子を見ていたローズは、ピーターの苦しみを思い一人涙を流す。ローズに気があるジョージは彼女を慰めに訪れ、そして結婚を承諾させてしまう。
ピーターは医学生になるために家を出ていくが、ローズはジョージの元へと嫁いでくる。
しかし彼女を気に入らないフィルは、回りくどいやり方で彼女に嫌がらせを始める。
そしてローズはストレスからアルコール中毒になっていく。
とても骨太なドラマだが、よく登場人物の行動を観察していないと意味が分からないシーンが多くなってくる。
なのでストーリーはそれほど込み入っていないが、難解な作品ともいえる。
説明的な台詞は少なく、常に腹に何か鬱屈したものを抱えているフィルの姿が印象的だった。
物語が進むにつれてフィルの秘密が少しずつ分かってくるが、最後まで明確な言葉で語られることはない。
序盤でも彼がジョージと同じベッドで寝る時の仕草や、ブロンコ・ヘンリーを敬愛する時の表情から、彼がゲイであることは予想できる。
彼が頑なに身体を洗わないのも何か関係があるのかもしれないと思った。
フィルには秘密の水浴びのスポットがあり、そこにはブロンコ・ヘンリーの肉体美が露になった写真が隠されていた。
そしてフィルは秘密の姿をピーターに見られてしまう。
ピーターに秘密を知られた途端に、彼に優しく接しようとするフィルの姿が滑稽だった。
彼はピーターのためにロープをプレゼントしようとし、彼に乗馬のノウハウを教える。そして彼に母親からの束縛から逃れるように諭す。
フィルはピーターのことをずっと弱い存在だと見くびっていたが、実はこの映画で一番怖いのはピーターだ。
彼は冒頭のモノローグで、何としても母を守ると誓う。
とても繊細で芸術的なセンスのあるピーターだが、時に残酷な姿を見せる。
彼は母を慰めるために野うさぎを捕まえてくるが、それを医者になるための参考にと解剖してしまう。
そして彼はローズがフィルの嫌がらせのせいでアルコール中毒になってしまったことを心の中で恨めしく思っていた。
ある日、フィルは牧場の柵に干していた家畜の生皮が全て失くなっていることに気がつく。
実はローズがフィルへの仕返しのために生皮を全部先住民に譲ってしまったのだ。
フィルはピーターにプレゼントするためのロープに生皮が必要だったのだと嘆く。
ピーターはフィルに近づき、実は生皮を切り取って保管してあることを彼に告げる。
それはピーターが山で病死していた家畜から切り取ったものだった。
フィルはその好意を有り難く受け取るが、それが彼の運命を決定づけてしまった。
彼は手に深い傷を負っており、さらに病死した家畜の生皮に素手で触れたために炭疽病にかかってしまう。
そしてそのまま呆気なく彼は亡くなってしまう。
さて、色々と偶然は重なったものの、ピーターが明らかに殺意を持ってフィルに生皮を渡したことは間違いない。
完成したロープを手袋をつけた状態でベッドの下に隠すピーターの薄気味悪い笑顔が印象的だった。
彼はジョージと仲良く抱き合うローズの姿を見守り笑みを浮かべる。
それはローズの幸せを喜んでいるようにも見えるが、実はジョージをも殺そうと企んでいるのではないかと思わせるぐらい不気味だった。
タイトルにある犬の力が何であるかは、ピーターが最後に唱えた呪文で分かる。
牧場の前に聳える山の形もブロンコ・ヘンリーは吠える犬のようだと話していたらしい。
淡々としているが、見応えのあるドラマで、フィル役のベネディクト・カンバーバッチの圧倒的な存在感が見事だった。
ここまで表情だけで饒舌に語れる俳優は他にいないのではないか。
官能性と精神性の混濁が希薄でサスペンス風味も乏しく統一感のない作品
『ピアノ・レッスン』とか『ある貴婦人の肖像』とか、カンピオン作品は官能性と精神性を混濁させた作風が好きなので、今回も期待して観た。
本作も官能性、特に男性フェロモンには事欠かず、精神性という面でもフィルのブロンコ・ヘンリー崇拝やフィルとピーターとの虚実混淆とした交流等がある。
とはいえ本作はわかりやす過ぎる。官能性と精神性の濃度が希薄なうえ、それらがはっきり区別され、単純なサスペンス映画と化している。ここには『ピアノ』のような言葉に出来ない雰囲気の素晴らしさ、濃密な何かが見られないのである。
その割にサスペンスの要素をぎりぎり塗り固めていくのではないし、モンタナの美しい自然、林に囲まれた静謐で小さな池やなだらかな丘陵の曲線を描くことで、逆に作品の統一感を殺ぎサスペンス風味を希薄にしている。
カンピオンは何を描きたかったんだろう? インタビューを読むと、「原作はトーマス・サベージが書いた同名小説。じわじわとした恐ろしさが迫り、観終わった後も強い余韻が残る優れた心理スリラーだ。原作小説を読んだ後、カンピオンも同じように感じたと、米ロサンゼルスで行われた会見で彼女は語った」というが、恐怖の前振りもろくになく、如何せんまったく怖くない。
また、キャラクター描出は相変わらず巧みだが、ジョージやローズは何のためにいるのかわからないくらい存在感が乏しい。
「読み終わった後も登場人物やテーマやディテールについて、いろいろ思い起こしては考えにふけってしまった。そのうちに、こんなに気に入っているのだから、自分で映画にするべきではないかと思うようになった」という。
意余って言葉足らず…か。いや、意そのものが足りなかったのではないか?
観終わった後の余韻がすごい
観終わった後に、あれはどういうことだったんだろうか?これはこういうことだったのか、いやこういう解釈もありえるな、など、再度最初から最後まで伏線を追い色々な解釈が頭を巡る、そういう作品が大好きだ。本作は、そういった意味で鑑賞後もしばらく作品の余韻にどっぷり浸って抜け出せない(いい意味で)。おかげで昨夜はあまりよく眠れなかった。
ベネディクト・カンバーバッチ演じるフィルは、その言動から誰がどう見ても男臭い粗野で野蛮な生粋のカウボーイ。実家の牧場経営に生涯を捧げるこの田舎のカウボーイは、実はイエール大卒の秀才でもある。弟ジョージの妻ローズに憎悪とも嫉妬ともいえる複雑な感情をあらわにし、ローズの連れ子ピーターとの間で少しずつ発展する関係のなかで、徐々にフィルのもう一つの面が姿を現してくる。威圧的な外面、精緻な頭脳、誰にも見せていない内面。複雑なこの人物、ものすごい難しい役のはずだが、カンバーバッチが流石すぎる演技で圧倒してくれた。本当に素晴らしい役者。
そして、ピーター役のコディ・スミット=マクフィーが、これまた引けを取らない演技を見せてくれている。登場はヒョロヒョロで弱々しい印象だが、実は彼の亡き父が言ったように「強すぎる」魂を秘めていた。そしてこの物語の最後をがっつりもっていくわけだが、ラストシーンの彼の微笑とともに冒頭のナレーションが頭をよぎり、ああやはり彼は強かったのだ、となんとも言えない感情に浸りながらこの作品を観終えた。ピーターが一本の煙草をフィルと分け合い吸っているときの妖艶な表情が忘れられない。
未だに不思議なのは、ピーターが目的を果たせた過程に、いくつかの偶然が重なっていた
ようにみえたこと。この偶然が無ければ、そもそもどうやって目的を果たそうと考えていたのだろうか?それとも、偶然ではなくピーターの策略で起きたものだったのだろうか(でもどうやって)?わからない、、、でもわからないから、面白い。
久しぶりに素晴らしいヒューマンドラマに出会うことが出来た。
ラスト1分でガラッとひっくり返るめちゃくちゃ怖い西部劇。
西部劇スタイルの感情の機敏に満ちた人間ドラマかと思いきや、なんとも恐ろしい復讐劇だったという、ラスト1分でガラッと引っくり返る鮮やかさ!めちゃくちゃ怖い映画やんけ(笑)。キャラクター同士の歯車が常に噛み合っていない不穏さが全編にスリルをもたらしていて、更にモンタナの広大な自然の美しさすらも映画の緊張感に寄与させたジェーン・カンピオンの手腕は見事。ワイルドさを押し出しつつ秘めたるトラウマを繊細に滲ませる複雑なキャラクターを演じたカンバーバッチの存在感がこの作品の軸になれば、助演のコディ・スミット=マクフィーの不気味なサイコパス感とジェシー・プレモンスの生真面目さが華を添える。見応えたっぷりの素晴らしい完成度で唸った!。
人間関係に焦点を当てたサスペンス
1920年代のアメリカを舞台に、牧場を経営する兄弟を取り巻く人間関係を描いたストーリー。
まず序盤では兄弟のすれ違い度合いがわかるようになっています。兄のフィルは弟のジョージを言葉に表さないけれど大切に思っているシーンが目立ちますが、ジョージはフィルの粗雑に見える振る舞いを嫌悪しているように見えました。そんなジョージが結婚したのち妻のローズ対して「孤独でないのは良いものだな」と涙ながらに言うシーンでは常に隣にいたフィルとジョージの心は通っていなかったということが彼自身の言葉で明らかになります。それまでの雰囲気で察していたけれど、実際にセリフとして表現されたこのシーンはとても見ごたえがありました。
また物語全体を通してフィルの存在感が凄まじく、序盤は謎めいているフィルの行動は、物語が進むにつれて彼の言葉で合ったり秘密が明らかになることで説得力が生まれます。そしてフィルはローズに対する仕打ちが原因でピーターに殺されてしまいますが、それでも最後までフィルに対する嫌悪感を感じることは無かったです。かといって作中の誰かに肩を持ちたくなるような感情も生まれず、ただフィルを取り巻く人間関係にひたすら注目してしまいました。
物語のラスト、窓からローズとジョージを眺めるピーターの構図も見ごたえがありました。フィルの存在に悩まされてきたローズとジョージが葬式の帰りにキスをするというのは決してフィルの死を悼んでの行いではないだろうし、それを見たピーターの笑顔は母の苦しみを取り除いた達成感によるものなのでしょう。ラストのピーターの表情は強烈な印象残すいい演技だったと思います。
時代は1920年代ですが、同性愛であったり、円満ではない家族関係など現代に生きる人々でも直面する問題がテーマとなっていました。ただ個人的にはテーマについて考えさせられるというより、人間関係を表現したエンタメを楽しめたというのが一番の感想です。
フィル vs ローズとピーター
《母を守る》
映画の冒頭。
ピーターのモノローグではじまる。
「父が死んだとき、
「僕は母の幸せだけを願った」
「僕が母を守らねば、誰が守る?」
考えてみれば最初にこの映画のテーマが述べられているのだ。
ピーターがこの映画の隠れたキーパーソンで、
母親のローズが彼の一番大事な人である。
1925年。モンタナ
牧場を経営している兄弟がいる。
兄のフィル(ベネディクト・カンバーバッチ)と、
弟のジョージ(ジェシー・プレモンス)。
事務的な経営は弟のジョージ。
カウボーイを束ねて牛の放牧責任者が兄のジョージ。
2人は25年かけて牧場をここまで大きくした。
兄弟の絆は強く、同じベッドに寝てる程だったが、
ジョージがホテル兼ダイナーの店主ローズ
(キルスティン・ダンスト)と突然結婚する。
ローズのことを、連れ子のピーターの
《学費と財産目当てメス狐》と
フィルは罵る。
ジョージを奪われて悲しかっただろう。
ジョージは上昇志向が強く結婚披露に両親と知事夫妻を招く。
その席でローズにピアノの腕前を披露させるために
グランドピアノを買うジョージ。
しかしローズのピアノ練習する「ラディキー行進曲」を
妨害するフィル・・・子供じみた男だ。
フィルのバンジョーはローズのたどたどしいピアノより、
よっぽどリズムに乗った「ラディキー行進曲」を爪びく。
夫婦の寝室の隣がジョージの部屋。
フィルの嫌がらせと、ストレスから
ローズは酒に逃避してアルコール依存症になって行く。
一方で、
夏休みに牧場に帰ったピーター(コディ・スミット=マクフィー)
「お嬢ちゃん」
とカウボーイたちに揶揄われるほど線が細い。
痩せて背が高く色白、瞳が大きく目立つ美貌だが、
女の子のようだ。
しかし医学生のピーターは、ウサギを解剖したり不気味。
やがてフィルとピーターは急接近してゆく。
「あの山は何に見える?」
「吠える犬でしょ!はじめからそう見えた」
フィルは驚く。
もしかしたらピーターは俺の同類。
乗馬を教えるようになり徐々に距離は縮まって行く。
ジョージの師匠で「意中の人」ブランコ・ヘンリー。
ジョージにゲイの世界を教えた男でもある。
ブランコ・ヘンリーは16年も前に死んでいるのに、
ビリーの魔法(呪い?)に、かけられているジョージ。
(・・・あの日が懐かしい・・・)
(ジョージは過去に生きる男である)
ピーターの夏休みが終わる頃、事件が起こる。
ジョージが干していたら牛の毛皮を先住民が買いたいと言う。
それまでずっと、ジョージは毛皮を決して売らずに
燃やす主義だった。
先住民を見たローズは、追いかけて行き、
「牧場主の妻だから、貰ってほしい」
と毛皮をくれてやる。
怒るジョージ。
(ピーターに編んでいる縄の仕上げに毛皮が必要なのだと言う)
ピーターは「毛皮なら自分が持っている」とフィルに言う。
病死していた牛から剥いだ毛皮だ。
結果としてフィルは炭疽症らしき症状で突然亡くなる。
この経緯はかなり無理クリで、
ローズの行動(毛皮を先住民にただで渡す行為・・・
に、意図はあったのか?)
とか、
ピーターが病死した牛から毛皮を剥いだ時、
これでフィルに炭疽症に
感染させようと思っていたのか?
とか、
一連の流れがローズとピーターの連携プレイなら、
計画的と言われても仕方がないではないか?
(こんな事で人が死ぬなんて、3流ミステリーのようだ)
しかしフィルの葬式の席で、ジョージの母はローズに
有りったけの指輪を手渡す。
フィルの父親は、クリスマスの招待を嬉しそうに受ける。
そしてフィルのいない庭でジョージとローズは伸び伸びと
幸せそうに抱擁を交わす。
(フィルは、実は、小うるさい変人の余計者だっただろうか?)
伸び伸びした解放感が、牧場に広がるのだった。
(ベネディクト・カンバーバッチの存在と演技力、
(役にのめり込み、役に成り切る力量。
(他の役者では、これだけの没入感は示せないだろう)
本作品はアカデミー賞監督賞を受賞した。
ジェーン・カンピオン監督の「ピアノレッスン」1993年作品。
その完成度、独創性、官能性、映像美、詩情。
どれをとっても、比べ物にならないと思ったのは、
私だけだろうか?
ドラマ映画を好んでみている人 考察が好きな人向けの映画
事前情報を仕入れずにネットフリックスにて鑑賞。
映像一つ一つはなんとなく分かる→解説ブログ「なるほどそうだったのか !」となるので
繰り返し見ると理解できるんじゃないかな……
(この映画を二回も見る気にはなれないけれど……)
ベネディクト・カンバーバッチ
2022年6月24日
映画 #パワー・オブ・ザ・ドッグ (2021年)鑑賞
西部劇でありながらテーマは現代的なこともあり、見終わったあとの満足感は高かった
女性監督が描いていることを強調すべきではないのだろうな
良作で、オススメです
滑り込みで観たけど、作品書受賞しなかったなあ
アカデミー賞作品賞最有力候補と聞き、受賞して込んでしまう前にと滑り込みで観た。(作品書は受賞しなかったけれど)
主題を直接語ることはなく、雰囲気を感じ取ってくれという映画。気合を入れないと、「なんだ?この映画」となりかねないヤツ。
主人公は、イエール大で古典を専攻したインテリなのに、父の大牧場を継いだので、いわゆる肉体労働者であるカウボーイたちを率いており、風呂にも入らない、荒くれ者たちに近い生活をしている。態度もぶっきらぼう。マッチョでありたいという思い、あるいはこの立場はマッチョであるべきという信念か? 弟は兄のようにできる者ではないが、兄と一緒に牧場経営に励んでいる。マッチョでありたい兄にとって弟という存在は、頼りないが守ってやらなければいけない存在なのだろう。その弟が、宿屋の女主人、離婚歴があり子持ちの女性と結婚して、流れはかわっていく、という話。主人公は、弟が結婚したことも100%納得できないし、結婚相手の息子ピーターの柔らかな物腰も気に入らない(主人公にとっては「男らしくないヤツ」)。しかしふとしたきっかけから、主人公とピーターは仲良くなっていく。だがしかし・・・
まずはやはり多くの方が語っている、マッチョの話なのだろう。
主人公「男を強くするのは苦境と忍耐だ」
ピーター「ぼくの父は、強くするのは障害物だと言った。そしてそれを取り除けと」
主人公「お前には障害物がある。お前の母親だ。母親はぐでんぐでんだ」
このやりとりは、最後まで観ると思わすこの部分を思い出すかと思います。
そして俺がこの話を観てもうひとつイメージしたものは「依存」。主人公は、明らかに弟に依存している。だから同じベッドに寝るし、弟が結婚することがなんだか気に入らない。兄としてはずっとかまって守っていたつもりなのに、弟はずっとひとりだった。主人公は弟を支配していたかっただけだったのだろうか。
主人公が崇拝している、主人公が子供の頃、いろいろなことを教えてくれ、荒れた天候の中で裸で彼を温めてくれたたマッチョな、ブロンコ・ヘンリーという存在。
主人公「ブロンコ・ヘンリーは目を使うことも教えてくれた。あの山になにが見えるか、わかるか?」
ピーター「ほえてる犬。最初に来た時に見えた」
主人公「すぐに、見えただって?」
このやりとりがふたりの仲が変化するきっかけ。誰も自分と同じように見えてくれない中で、とうとう現れたブロンコと同じものを見られる少年。主人公の保護意欲は、すでに妻帯者となってしまった弟から一気に息子へと。つまり主人公が依存する対象が、弟から息子へ移る。
そしてまた、弟の妻もまた息子ピーターに「依存」している。息子はそんな母親に優しく対応する。
弟も、市長夫婦を牧場に招くことに成功するが、「兄貴がいないと(インテリ相手の)話がもたないから、家にいてくれよ」と懇願する点では兄に依存している面がある。
以下はネタバレなので、観た人だけ読んでください。
腐った動物の死骸に、しばらく漬けられていたかもしれない、炭疽菌漬けかもしれないロープ。
それは息子ピーターのベッドの下に眠り、今後もずっと、人の眼には触れないだろう。
ピーターは、父親が言う通り、自分で障害物を排除し、強くなり自分の道を切り拓いたわけだ。
真にマッチョ、「強い人」であるのは誰なのだろうか、という映画と俺には感じられた。
広大な砂の大地〜冷ややかな眼差し
ベネディクト・カンバーバッチ、キルスティン・ダンスト、ジェシー・プレモンス( 実生活でも夫婦だとは驚き!)、コディ・スミット = マクフィー、それぞれの個性が際立つ。
非情さと繊細さ、容赦ないラストに全てを持って行かれた。
自宅での鑑賞
荒々しさの中の最大の繊細さ
後味が、ちょっとおいしくないエンディングだけど、フィル、ジョージ、ローズそしてピーターこの4人の存在感が、物語が進むにつれて、だんだん気になっていく不思議なこの感覚。十分味わいました。女性監督だからこそ、この映画の中に漂うピリピリした異様または異常な空気は持ち出せると感じがします。特にローズが弟ジョージと結婚して、ピーターと牧場に住み始めた頃からの、フィル自身の本当の姿をあらわに出る所々の場面には、男らしく周りの人から頼られるマッチョな雰囲気を表面に出す反面、どこか弱々しくエロティクにも見える描写。見ていて固まってしまいました。
映画好きが映画館でじっくり観たい映画なんだけどね〜
アメリカ西部の広大な牧場で
颯爽と馬を駆るドクター・ストレンジ!
では無く、ベネディクト・カンバーバッチ。
最初に作品紹介を読んだ時にカンバーバッチのカウボーイ?
なんかピンと来なかったけど実際に映画を観てみると
彼以外に考えられないくらいカンバーバッチにピッタリの役!
西部劇の牧場主と言うとテンプレ的な荒っぽい男を連想しがちだけど
カンバーバッチ演じる牧場主は大学を出て楽器も嗜む知的な男。
それでいて荒っぽいカウボーイ達がちゃんと従う様な
強い一面をもっており、常に自信に溢れた男で誰に対しても上から目線。
牛を移動させる道中に立ち寄った小さな宿屋、
切り盛りする未亡人と、その息子の痩せっぽちの高校生を
露骨に馬鹿にした態度を取る。
気に入らないなら単に無視すれば良いだけなのに
わざわざ馬鹿にした言葉を皆の前で投げ付けるなんて.....
彼自身がある意味で己の男性性を誇示する事に
異常に拘っていることが伝わって来るシーン。
嫌味過ぎて、観ているこっちまで緊張して来る。
そんな男にも実は、誰にも言えない秘密があった!
さらに、心優しい男に見えた牧場主の弟も、また
違った意味での女性蔑視の塊であった。
そして、物語の中盤からあの痩せっぽちの息子が
物語を意外な方向に導いてゆく。
中々に複雑で今日的な見応えのある映画でした。
最後に笑うのは誰か?
見応え有りの作品でした。
で、月に8本ほど映画館で映画を観る中途半端な映画好きとしては
本当は映画好きが映画館でじっくり観たい様な
映像的にも内容的にも重層的な複雑な映画!
ネットの小さな画面で観るだけなんて勿体ないわ〜〜
昨年暮れに一部の映画館で期間限定で上映されていたけど
あの「ピアノ・レッスン」のジェーン・カンピオン監督の作品と
ちゃんと認識しておらず、うっかり見逃してしまいました。
「ピアノ・レッスン」は夫の有害な男性性により
心が壊れゆく妻と娘、そしてその再生を描いた映画だったと
記憶しているのだけど、今作は有害な男性性プラス
その男性性を持って生きなければならなかった男性も実は
結構苦しいと言う中々に奥深い作品になっている。
Netflix作品と言うことでアメリカのアカデミー賞では
監督賞しか取れなかった訳だけど
Netflixでなければこの様な内面的な奥深い映画に
お金を出してくれなかった。
映画館でじっくり観たい本当の映画好きに向けた作品に
お金を出せない映画界が、ネット配信の作品を目の敵にして
賞を与え無いと言うのも本末転倒で実に情けないわな。
期間限定でもこの様な良い作品を上映してくれた
Cinema KOBE のスタッフの皆さん!
本当にありがとうございました。
流麗だが不気味な音楽が非常に効果的な一作。
第94回アカデミー賞で監督賞を受賞した本作、出来映えを鑑みるとカンピオン監督の受賞は当然と思えるものの、作品の持つ力強さ、前評判の高さからすると、他の部門での受賞をことごとく逃しているのはとても意外でした。
米国西部が舞台となっているものの、撮影はカンピオン監督の故郷でもあるニュージーランドとオーストラリアで行われています。それもあってか人々を取り囲む風景の雄大さは非常に印象的ですが、とは言っても、西部劇として見ても全く違和感を感じませんでした。ロケーションの選択の巧みさでしょうか。あるいは実際に米国西部に住んでいる人からすると違いが分かるんでしょうか?
題名を旧約聖書から引用するなど、そこかしこに宗教的な要素を見て取ることができます。牧場主の兄弟による絆と諍いの物語は、カインとアベルの物語をなぞるように展開するのかと思いきや、ベネディクト・カンバーバッチ演じるフィルの複雑な人物造形は、観客の憶測を超えた側面を見せます。荒くれた男達を率いるために、過剰とも言えるほど「男らしさ」を強調する一方で、実は深い学識と教養、さらに美的感覚を備えた人物であることが明らかになっていきます。自分の生き方に信念を持ち、自信に満ちあふれているように見えるフィルの内面の葛藤を本作では、流麗な筆致やクラシック曲の口笛などで効果的に表現しています。
風景に目を奪われがちですが、本作では音楽が重要な役割を担っており、例えばローズ(キルスティン・ダンスト)とフィルが一種の共演を行う場面において異様な緊張感をかき立てます。本作の音楽担当は、レディオヘッドのジョニー・グリーンウッドとのこと。それもあってか、本作を観ながらどことなく同様に彼が音楽を手がけた『ファントム・スレッド』(2017)を連想しました。
ものすごく余談ながら、予告編のタイトルに誤植があり(『パワー・オブ・ザ・”ドック”』になっていた)、危うく間違えて周囲に吹聴するところでした…。公式の予告編映像は直して欲しい…。
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