楢崎正剛 : ウィキペディア(Wikipedia)

楢﨑 正剛(ならざき せいごう、1976年4月15日 - )は、奈良県香芝市出身の元プロサッカー選手、サッカー指導者。現役時代のポジションはゴールキーパー。元日本代表。

FIFAワールドカップに4大会連続で選出された。史上初のJリーグ公式戦100完封達成者。

2010年にJリーグMVPをゴールキーパー史上初めて獲得。

来歴

アマチュア

母の実家がある徳島県で誕生楢崎、バースデー完封だ。中日スポーツ2017年4月14日。香芝市立香芝中学校卒業後に奈良育英高校に入学し全国高等学校サッカー選手権大会でベスト4に進出した。同期のチームメイトにフットサル日本代表の藤井健太がいる。

クラブ

奈良育英高校卒業後1995年に横浜フリューゲルスに加入し、長期出場停止処分を受けた森敦彦に代わって新人ながら正GKとして出場した。1996年は開幕から6試合連続無失点のJリーグ記録を樹立し、クラブとしても開幕8連勝を果たすなど上位進出に貢献した(最終順位は3位)。同年の活躍によりJリーグベストイレブンに初選出された。1998年シーズン限りでのクラブ消滅が決まった後、元日の天皇杯優勝で有終の美を飾り、1999年に山口素弘、そしてGKコーチのマザロッピと共に名古屋グランパスエイトへ移籍した。名古屋でも移籍一年目からそれまで正GKを務めていた伊藤裕二からポジションを奪い、2000年からは2013年まで14シーズン連続でキャプテンを務めるなどチームの中心選手として活躍。2009年7月25日の対浦和レッズ戦(埼玉スタジアム2002)にて、史上初の「Jリーグ公式戦100完封」を達成した。

2010年シーズンは、初のJリーグ優勝を経験し、GK初のJリーグMVPに輝いた。

2012年11月17日の対ジュビロ磐田戦 (ヤマハスタジアム) で史上2人目のJ1通算500試合出場を達成した。また、2013年5月6日の対ベガルタ仙台戦 (豊田スタジアム) でJ1通算512試合出場を達成、伊東輝悦が持っていたJ1最多出場記録を更新した。

2013年から2015年シーズンは、リーグ戦34試合に全て出場した。

2016年シーズンは、怪我もありリーグ戦27試合の出場となり、チームも低調な成績で自身初のJ2降格を経験した「もっとやれたはず」 守護神・楢崎、J2降格の現実に「辛いしかない」 サッカーキング 2016年11月3日付。

2017年シーズンもレギュラーとしてプレーするも、終盤に武田洋平にポジションを奪われ、J1昇格を決めたJ1昇格プレーオフでも武田にポジションを譲る形になった楢崎と玉田に契約延長オファー 風間監督「本当に一流」 中日スポーツ 2017年12月7日。

2018年シーズンは、オーストラリア代表のランゲラックの加入もあり、プロ入り後初めて公式戦無出場に終わった。12月2日に行われた2018年限りで引退するライバルであった川口能活の引退セレモニーにサプライズで登場し、その際に川口から「まだ、続けてください。僕の分も頑張ってください」と引退を視野に入れていた楢崎に言葉を掛けた川口能活 引退セレモニーにサプライズ登場のGK楢崎正剛にエール「まだ続けてください」 スポニチ 2018年12月2日。しかし、2019年1月8日に引退を発表楢崎 正剛選手、現役引退のお知らせ 名古屋グランパス 2019年1月8日。奇しくも川口と同じ年にユニフォームを脱ぐことになったGK楢崎、現役引退を発表 「最高のサッカー人生」もファンに勇姿見せられず「申し訳なく」 スポニチ 2019年1月8日。3月2日に名古屋とC大阪の試合前に行われた引退セレモニーでは、川口がサプライズで花束を持って登場した楢崎正剛氏の引退セレモニーが開催「やっと一区切りがついた」 サッカーキング 2019年3月2日。またセレモニー後、場内を一周した際には、セレッソ大阪ゴール裏サポーターからも声援と大きな拍手を受けた。試合後は選手たちによって胴上げされた。

引退後

2019年2月15日に名古屋グランパスで、Jクラブ初のCSF(クラブスペシャルフェロー)として活動する事を発表した楢崎 正剛氏、名古屋グランパス クラブスペシャルフェロー就任のお知らせ 名古屋グランパス 2019年2月15日。CSFについて公式サイトでは、「『日本のGKがさらに世界で認められる手助けをし、日本のサッカー界の発展に貢献したい』という楢崎氏の想いに弊クラブが賛同し新設した役職。後進のGK育成のために、国内外の指導・育成現場の視察などの活動を通し、日本のGKのレベルアップに貢献できる取り組みについて検討、併せて、グランパスの渉外・広報活動、ホームタウン活動にも従事する」と綴られている楢崎正剛氏、名古屋にて新たな役職に就任…Jクラブ初のCSFとして活動開始 サッカーキング 2019年2月16日。

2019年10月24日に開催されたJリーグ理事会において同年開催のJリーグアウォーズでJリーグ功労選手賞の授与が決定した。

2020年には名古屋グランパスにて、上記の「クラブスペシャルフェロー」に加え「アカデミーダイレクター補佐」および「アカデミーGKコーチ」を兼任することとなった『月刊グラン』(中日新聞社) 2020年3月号 P4、18。

2021年2月18日、日本サッカー協会によるオンライン理事会の承認により、2021年度のJFAトレセンコーチに就任。全国各地域で有望な若手GKを育成していくと発表された。名古屋グランパスの「クラブスペシャルフェロー」、「アカデミーダイレクター補佐」、「アカデミーGKコーチ」とも引き続き兼任となった『月刊グラン』(中日新聞社) 2021年4月号 P44。

日本代表

日本代表には1996年に初選出され、1998年2月15日のオーストラリア戦で国際Aマッチ初出場を果たした。日本のワールドカップ初出場となった1998年フランス大会メンバーに初選出されるが出場機会は無かった。

フランス大会後、代表監督に就任したフィリップ・トルシエの下で出場機会を増やし、2002年日韓大会では川口能活に代わって正GKを務め、4試合全てに出場する。日本代表史上ワールドカップでの初勝ち点、初勝利(完封勝利)、初の決勝トーナメント進出に貢献した。また、この間2000年シドニーオリンピック代表にも森岡隆三、三浦淳宏と共にオーバーエイジ枠で選出され全試合に出場した。

日韓大会後のジーコの代表監督就任後も代表の正GKを務め、2003年10月8日の親善試合チュニジア戦から2004年2月18日のドイツW杯アジア1次予選グループ3第1戦オマーン戦まで、7試合無失点という日本代表連続無失点記録を作った。しかし、怪我で出場できなかったアジアカップにおいて楢﨑の代わりに川口が活躍し、大会後は出場機会が減り、2006年ドイツ大会では出場機会はなかった。

ドイツ大会後に代表監督に就任したイビチャ・オシムからは暫く招集を見送られていたが、クラブでの好調さを評価され2007年のキリンカップのメンバーに招集され、モンテネグロ戦で24試合ぶりの先発出場を果たした。2008年のワールドカップアジア3次予選途中からは約5年振りとなる代表レギュラーとしてプレーした。

しかし2010年南アフリカ大会直前の練習試合においては、高地適用で遅れたために岡田監督、戦法変える! 岡崎1トップ デイリースポーツ スタメンを川島永嗣が務め、本大会でも出場機会は得られなかった。楢崎本人は日本に帰国してから、エル・ゴラッソの取材に「高山病はガセネタ。毎日練習していたし、高地にも普通に順化できた」と話している楢崎とケネディが揃って「バッサリ」合流 エル・ゴラッソ 2010年7月10日閲覧。

フル代表では、10年以上にわたり、楢崎と川口の二頭体制が続いた。川口が初先発した1997年2月13日のスウェーデン戦から、南アフリカワールドカップ直前で、楢崎がスタメン落ちする前の試合である2010年5月23日の韓国戦まで、2人のどちらかが先発した国際Aマッチは合計192試合に及ぶ(楢崎76試合、川口116試合)。この間に、2人以外のGKが先発した国際Aマッチは僅か24試合しか無い。

2010年9月7日、グアテマラ戦(長居スタジアム)に先発フル出場(国際Aマッチ77試合目)。その後の記者会見で日本代表からの引退を表明した楢崎が代表引退を表明 スポーツナビ 2010年9月7日閲覧。

国際Aマッチ7試合連続無失点という日本記録を持っていたが日本サッカー協会編「日本代表公式記録集The Yearbook of JFA 2011」、2021年3月に権田修一によって更新された守護神・権田、韓国シャットアウト!楢崎超えA代表歴代最多の8戦連続完封 スポニチアネックス 2021年3月26日閲覧。

人物・エピソード

  • かつては海外移籍志望を持っており、2004年にはリーガ・エスパニョーラのアトレティコ・マドリードが楢崎獲得に乗り出していると報道されたが、実現には至らなかった。
  • シドニーオリンピック準々決勝のアメリカ戦で味方選手と衝突し、流血しながら最後までプレーを続けたがPK戦で敗れる。試合後に病院に直行したところ、左眉付近が骨折していることが判明した。これには後日談があり、アテネ五輪の日本代表監督を務めた山本昌邦が五輪代表のキャンプでアデレードの同じ会場を訪れた際、選手たちに「あれが楢崎が血を流してまで守ろうとしたゴールだ。しっかり目に焼きつけておくように」と語った逸話がある代表のゴールを明け渡す楢崎正剛。対照的な川口の決断と、川島の課題。(2ページ目)-Number Web。
  • プロキャリアをスタートした横浜フリューゲルスへの思い入れが強く、ライバルの川口能活が当時横浜マリノスにいたこともあり、フリューゲルス合併後に統合チーム(横浜F・マリノス)へ所属するという見方はほとんどなかった。「『前所属・横浜フリューゲルス』を消したくないので、できるならもう移籍したくない」という発言をしている繰り返すな! 横浜フリューゲルスの悲劇-フットボールチャンネル通り、2018年に引退するまで移籍することはなかった。
  • 2010年、楢崎が代表引退を発表した際、労う意味やその頃名古屋グランパスが優勝を目指していたことがあり、当時では珍しいディフェンスの選手のチャントを作ることになった。当初は「楢崎正剛 名古屋の誇り 代わりは居ない お前が一番 そうさ俺らの守護神」だったが、「楢崎正剛」の発音から、歌いやすいように「名古屋」と「俺ら」を入れ替えた。

所属クラブ

ユース経歴
  • 香芝市立三和小学校
  • 香芝市立香芝中学校
  • 1992年 - 1994年 奈良育英高校
プロ経歴
  • 1995年 - 1998年 JPN 横浜フリューゲルス
  • 1999年 - 2018年 JPN 名古屋グランパスエイト/名古屋グランパス

個人成績

|- |1995 |rowspan="4"|横浜F |rowspan="2"|- |rowspan="4"|J||23||0||colspan="2"|-||2||0||25||0 |- |1996||23||0||14||0||2||0||39||0 |- |1997 |rowspan=22|1||24||0||7||0||5||0||36||0 |- |1998||34||0||0||0||5||0||39||0 |- |1999 |rowspan=20|名古屋 |rowspan=18|J1||25||0||4||0||5||0||34||0 |- |2000||30||0||2||0||2||0||34||0 |- |2001||28||0||6||0||1||0||35||0 |- |2002||30||0||0||0||3||0||33||0 |- |2003||28||0||6||0||2||0||36||0 |- |2004||26||0||0||0||2||0||28||0 |- |2005||32||0||0||0||1||0||33||0 |- |2006||24||0||2||0||2||0||28||0 |- |2007||29||0||4||0||2||0||35||0 |- |2008||30||0||2||0||1||0||33||0 |- |2009||26||0||0||0||3||0||29||0 |- |2010||34||0||0||0||0||0||34||0 |- |2011||24||0||2||0||3||0||29||0 |- |2012||32||0||1||0||4||0||37||0 |- |2013||34||0||6||0||1||0||41||0 |- |2014||34||0||6||0||2||0||42||0 |- |2015||34||0||6||0||0||0||40||0 |- |2016||27||0||3||0||1||0||31||0 |- |2017||J2||29||0||colspan=2|-||0||0||29||0 |- |2018||J1||0||0||0||0||0||0||0||0 631||0||71||0||49||0||751||0 29||0||colspan=2|-||0||0||29||0 660||0||71||0||49||0||780||0 |}

その他の国内公式戦

  • 2000 XEROX SUPER CUP 1試合0得点
  • 2011 XEROX SUPER CUP 1試合0得点

|2009||rowspan=3|名古屋||rowspan=3|1||6||0 |- |2011||6||0 |- |2012||7||0 |- !通算!!colspan="2"|AFC |19||0 |}

その他の国際試合

  • 2000/01 アジアカップウィナーズカップ 2試合0得点

代表歴

出場大会など

  • 1996年 AFCアジアカップ (出場なし)
  • 1998年 FIFAワールドカップ・フランス大会 (出場なし)
  • 1999年 コパ・アメリカ (1次リーグ敗退、3試合中2試合出場)
  • 2000年 シドニーオリンピック (オーバーエイジ枠で全試合出場)
  • 2002年 FIFAワールドカップ・日韓大会 (全試合出場)
  • 2003年 FIFAコンフェデレーションズカップ (全試合出場)
  • 2003年 東アジアサッカー選手権 (全試合出場)
  • 2004年 AFCアジアカップ (出場なし)
  • 2006年 FIFAワールドカップ・ドイツ大会 (出場なし)
  • 2007年 AFCアジアカップ (出場なし)
  • 2010年 FIFAワールドカップ・南アフリカ大会 (出場なし)

試合数

  • 国際Aマッチ 77試合 0得点 (1998年 - 2010年)

|- |1998||2||0 |- |1999||3||0 |- |2000||9||0 |- |2001||1||0 |- |2002||10||0 |- |2003||12||0 |- |2004||9||0 |- |2005||4||0 |- |2006||0||0 |- |2007||1||0 |- |2008||12||0 |- |2009||6||0 |- |2010||8||0 |- !通算 |77||0 |}

主な受賞歴

横浜フリューゲルス
  • 1998年 天皇杯優勝
名古屋グランパスエイト/名古屋グランパス
  • 1999年 天皇杯優勝
  • 2010年 Jリーグ優勝

個人

  • Jリーグ最優秀選手賞 (2010年)
  • Jリーグベストイレブン (1996年、1998年、 2003年、2008年、2010年、2011年)
  • Jリーグ優秀選手賞 (1997年、1998年、1999年、2000年、2002年、2003年、2004年、2008年、2010年、2011年)
  • Jリーグ功労選手賞 (2019年)

出演

CM

  • トヨタ自動車「MR-S」 (2002年)
  • 内閣府「ストップ・エイズ・キャンペーン」 (2002年)
  • PUMA『がんばれ、高校サッカー』 (2006年) - 田中達也との共演
  • ソニー・インタラクティブエンタテインメント「PlayStation®4『がんばった2人』篇」(2019年3月8日 - )- 川口能活との共演

映画

  • 名探偵コナン 11人目のストライカー(2012年) - 本人役

著書

  • 「失点 取り返せないミスの後で」2010年6月4日発売 幻冬舎

関連項目

  • 横浜フリューゲルスの選手一覧
  • 名古屋グランパスエイトの選手一覧
  • サッカー日本代表出場選手

外部リンク

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2024/04/04 13:42 UTC (変更履歴
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