シドニー・ローム : ウィキペディア(Wikipedia)

シドニー・ローム(, 1951年3月17日 - )は、アメリカ合衆国オハイオ州アクロン生まれの女優であるSydne Rome, インターネット・ムービー・データベース , 2011年2月28日閲覧。。イタリアでの映画出演が多い。彼女の名前はよく間違ってSydneyとかSidneyと表記される。瞳は深いブルー。

人物・来歴

1951年(昭和26年)3月17日、オハイオ州の裕福な家庭に生まれる。ロシア系とユダヤ系の血をひく。13歳の頃より演劇に興味を持ち、大学の演劇科に進学。1968年の米・仏・伊の合作映画『キャンディ』の主役に応募するため、オーディションを受けたが「あまりも美しすぎる」と理由で落とされた。意を決したシドニーは帰国せず、当時マカロニ・ウェスタンに沸くイタリアに渡り、念願叶い1969年(昭和44年)、ジュリアーノ・ジェンマ主演の『荒野の大活劇』の端役で映画デビューした。しかしはるばる大西洋を越えて外国に来たのに端役が悔しく、必死にイタリア語を覚えた。この時期にアルバイトでファッションモデルをやった。1972年のロマン・ポランスキー監督のブラック・コメディ『Che?』は、日本では公開されなかったが、イタリアの大スター・マルチェロ・マストロヤンニとともに主役に抜擢され、公開と同時に大きなセンセーションを捲き起こし、以降出演オファーが殺到した。この映画のスチル写真家だったエミリオ・ラーリと恋に落ち1973年(昭和48年)8月、結婚するが、のちに離婚している。離婚理由は「あまりに美男子なので、一緒にいるとコンプレックスを感じる」だった。ラーリの撮ったポートレートが巡り巡ってアラン・ドロンの許に届き、ドロンと共演した1974年の『個人生活』で日本でも知名度を上げた。『個人生活』のキャンペーンで初来日した際、記者会見で聞かれてもいないのに、このような私生活から過去の恋愛までペラペラ喋り、付き添いを慌てさせた。離婚後はフランスパリに住み、当時のフランスでは、ドロンやミレーユ・ダルクジャン・ギャバンなど、映画スタアのレコーディングが流行ったことから、シドニーもシャンソンのレコードを発売している。

モデル出身で70年代中心に、アメリカ人ではあるがハリウッドよりもヨーロッパ方面で活躍をした。

1987年(昭和62年)5月20日、ロベルト・バルナベイと結婚、のちに2児をもうける。

1980年代前半はヨーロッパで歌手としても活躍。当時のエアロビ・ブームに乗り、エアロビックダンスのビデオ、レコードも発売したhttp://www.discogs.com/Sydne-Rome-Aerobic-Fitness-Dancing/release/1850862。

1988年(昭和63年)、『アナザーウェイ D機関情報』で日本映画にも出演した。

代表作

  • 電撃!スパイ作戦 Some Girls Do (1969)
  • 荒野の大活劇 Vivi o, preferibilmente, morti (1969)
  • ポランスキーの 欲望の館 What? (1972)
  • 暗殺指令・虎狼の手口 Order to Assassinate (1974)
  • 個人生活 La race des 'seigneurs' (1974)
  • 尻たたき La sclacciata (1974)
  • 危険なめぐり逢い Jeune fille libre le soir (1975)
  • ラッキー・タッチは恋の戦略 That Lucky Touch (1975)
  • ブルース・ダーンのザ・ツイスト Folies bourgeoises (1976)
  • ポール・ポジション Formula uno, febbre della velocità (1976)
  • ジャスト・ア・ジゴロ Schöner Gigolo, armer Gigolo (1978)
  • ホセ・カレーラスの悲恋のアリア Romanza final (1986)
  • アナザーウェイ D機関情報 (1988)
  • Il figlio più piccolo (2010)

注釈

出典

関連事項

外部リンク

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