シドニー・ハーバート : ウィキペディア(Wikipedia)

リーの初代ハーバート男爵シドニー・ハーバート(, 、1810年9月16日 - 1861年8月2日)は、イギリスの政治家、貴族。

保守党、ピール派、自由党と党派を移しながら、閣僚職を歴任した。

経歴

1810年9月16日、第11代ペンブルック伯爵の四男としてイングランド・サリー・リッチモンドに生まれる。母は父の後妻(ロシア貴族の娘)。異母兄に(第12代ペンブルック伯爵)がいる。

ハーロー校を経てオックスフォード大学オリオル・カレッジへ進学した。

1832年から1861年までから選出されて庶民院議員を務める。

当初は保守党に所属し、第一次ピール内閣においてを務めた。第二次ピール内閣においては1841年から、1845年からは戦時大臣を務めた。穀物法廃止をめぐる閣内論争では穀物法廃止を目指すピール首相を支持した君塚(1999) p.77。

保守党が穀物自由貿易派と保護貿易派に分裂すると自由貿易派のピール派に属した。1852年12月に成立したピール派とホイッグ党の連立政権アバディーン伯爵内閣にはピール派からの閣僚の一人として戦時大臣として入閣したバトラー(1980) p.17。クリミア戦争をめぐっては他のピール派閣僚とともに平和派に属したが、ホイッグ党閣僚たちに押し切られた結果、参戦することになったバトラー(1980) p.23

1855年1月にはクリミア戦争の泥沼化の中で調査委員会の設置の動議が決議され、アバディーン伯爵内閣は退陣。代わってホイッグ党首班の第一次パーマストン子爵内閣が発足したバトラー(1980) p.24-25。ハーバートは植民地大臣として同内閣に入閣したが、パーマストン子爵が調査委員会の設置に応じる構えであったため、他のピール派閣僚のグラッドストン、サー・ジェームズ・グラハム準男爵とともに二週間のうちに下野したバトラー(1980) p.25-26。

1858年に第一次パーマストン子爵内閣が倒閣され、保守党党首ダービー伯爵が組閣の大命を受けると、ダービー伯爵から協力要請を受けたが、拒否した君塚(1999) p.141。ピール派の長老政治家グラハムが病気で第一線を退くと、グラッドストンやニューカッスル公爵とともに同派の指導的存在となった君塚(1999) p.152。

1859年6月、ホイッグ党とピール派の合同で自由党が結成され、自由党政権の第二次パーマストン子爵内閣が発足し、ハーバートは陸軍大臣として入閣したバトラー(1980) p.26-27。中国との戦争の指導にあたっていたが、1860年秋頃から糖尿病、腎臓病、ブライト病などを罹患して体調を崩した。

病気の療養のため、1861年1月1日にに叙されて貴族院に移籍することで庶民院から離れた。この段階では陸軍大臣には在職したものの、結局同年7月22日に陸軍大臣も辞することになり、8月2日にイングランド・ウィルトシャー・のにおいて死去した。

リーのハーバート男爵の爵位は彼の長男が継承した。また翌1862年にシドニーの兄ロバートが子供無く死去するとジョージがペンブルック伯爵位も継承している。

家族

1846年にと結婚し、彼女との間に以下の3子を儲けている。

  • 第1子(長男)第13代ペンブルック伯爵(1850-1895)
  • 第2子(次男)第14代ペンブルック伯爵(1853-1913)
  • 第3子(長女)(1859-1917):第2代リポン侯爵フレデリック・ロビンソン夫人

注釈

出典

参考文献

外部リンク

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2023/01/03 07:33 UTC (変更履歴
Text is available under Creative Commons Attribution-ShareAlike and/or GNU Free Documentation License.

「シドニー・ハーバート」の人物情報へ