亀井文夫 : ウィキペディア(Wikipedia)

亀井 文夫(かめい ふみお、1908年4月1日-1987年2月27日)は、日本の映画監督。

福島県原町(現・南相馬市)生まれ日本ドキュメントフィルム 亀井文夫略歴、幼少時に仙台市門前町に転居し、南材木町尋常小学校(現・仙台市立南材木町小学校)に通う。早稲田中学校卒業。

1928年、文化学院大学部を中退後neoneo坐—これまでの上映作品—2007年下半期 解説(リンク切れ)neoneo坐 『流血の記録 砂川』監督◎亀井文夫、ソビエト美術を学ぶため1929年にソビエトへ渡る監督プロフィール。ソビエトで見た映画に感動し、映画の道を志し、レニングラード映画技術専門学校の聴講生になった監督プロフィールのが映画監督になるきっかけ。

特に記録映画の分野で活躍し、社会派の記録映画とともに、自然科学分野の記録映画、企業映画などもつくった。

略歴

  • 1933年、ソ連留学時代に罹った肺結核回復後、写真化学研究所(PCL)に入社。
  • 1935年、『姿なき姿』で監督デビュー。
  • 1938年、『上海』『北京』。
  • 1939年、軍部の後援で監督した『戦ふ兵隊』の上映禁止。
  • 1941年、映画人のなかで唯一、治安維持法違反容疑による検挙・投獄、演出家資格抹消を経験生誕百年 映画監督 亀井文夫
  • 1946年、吉見泰と共同で編集した『日本の悲劇』がGHQによって上映禁止処分。
  • 1947年、山本薩夫との共同監督の『戦争と平和』上映。東宝争議に巻き込まれる。
  • 1949年、『女の一生』監督。
  • 1950年、連合国軍最高司令官総司令部指令によるレッドパージの対象者となるが、山本薩夫らとともに独立プロダクション新星映画社で活動。
  • 1952年、劇映画『母なれば女なれば』監督。
  • 1953年、劇映画『女ひとり大地を行く』、『基地の子たち』監督。
  • 1954年4月、独立プロ「日本ドキュメントフィルム」を創立。
  • 1956年、『生きていてよかった』、『麦死なず』。
  • 1957年、『流血の記録――砂川』。撮影スタッフのひとりとして、勅使河原宏が参加
  • 1957年、『世界は恐怖する――死の灰の正体』あらすじ・解説 - 世界は恐怖する 死の灰の正体
  • 1960年、『人間みな兄弟 部落差別の記録』。
  • 1966年、日本航空が企画したPR映画『日本の翼』。
  • 1986年、『生物みなトモダチ――トリ・ムシ・サカナの子守歌』

著書

  • 『たたかう映画―ドキュメンタリストの昭和史』 岩波新書, 1989年

出典

外部リンク

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