ニッキー・ヘイデン : ウィキペディア(Wikipedia)

ニコラス・パトリック・"ニッキー"・ヘイデンNicholas Patrick "Nicky" Hayden、1981年7月30日 - 2017年5月22日)は、アメリカ合衆国、ケンタッキー州オーエンズボロ出身のオートバイレーサー。2002年のAMAスーパーバイク選手権チャンピオン、のロードレース世界選手権MotoGPクラスチャンピオン。ニックネームは"The Kentucky Kid"など。アメリカで有名なレーサー一家に生まれた。兄弟のトミー・ヘイデンとロジャー・リー・ヘイデンもプロのオートバイレーサーとして活躍している。

初期の経歴

ヘイデンはケンタッキー州オーエンズボロで生まれた。3歳でバイクに乗り始め、5歳頃にはすでにレースに出場していた。7歳の時、[[:en:Wikipedia:American Motorcyclist Association|AMA]]グランドナショナルダートトラック選手権のアマチュアクラスで初めてのタイトルを獲得した。1997年にはAMAホライズンアワードのダートトラック部門賞(AMA Horizon Award Dirt Track winner, 最も優れたアマチュアレーサーに贈られる)を受賞しているAMA Sports Sportsman and Athlete of Motorcyclthe Year Award recipients アメリカモーターサイクル協会。

彼は当時の年長のレーサー達に対して、[[:w:en:Central Motorcycle Roadracing Association|CMRA]]でロードレースを始めた。ヘイデンは足が地面に付かなかったため、家族やクルーがバイクを直立状態に保つ必要があり、しばしばグリッド後方からレースをスタートしていた。その後高校在学中の17歳でホンダのファクトリーマシン、RVF750/RC45でスーパーバイクレースに参戦する。1999年、彼はプライベーターとしてホンダ・CBR600FでAMAスーパースポーツ選手権でチャンピオンを獲得した。マシンがRVFからRVT1000RWにマシンを変更された2000年に初優勝をあげ、2001年、AMAのスーパーバイクレーサーとして初めてシーズンフル参戦し、40ポイントを挙げマット・ムラディン、エリック・ボストロムに次いでランキング3位となった。2002年シーズンはRC51を操ってデイトナ200で勝利し、3度のタイトルを持つマット・ムラディンを始めとするライダー達を倒してAMAスーパーバイクの最年少チャンピオンとなった。彼はまたラグナ・セカでのスーパーバイク世界選手権に参戦し、第1レースでは4位となり、第2レースでは芳賀紀行と接触したものの13位となった。

アメリカ人ロードレースライダーはダートトラック出身者が多いが、ヘイデンもその1人である。1999年、ヘイデンは初めてグランドナショナル選手権レース(ヘイガースタウン・ハーフマイル)で優勝し、ルーキーオブザイヤーを獲得した。彼はまたAMAアスリートオブザイヤーも獲得した。2000年にはスプリングフィールド・ショートトラックで優勝している。2002年は出場したダートトラックのレースは僅かであったが、スプリングフィールド・ショートトラックで2回、スプリングフィールドTT、ピオリアTTと計4回優勝した。スプリングフィールドTTではヘイデン3兄弟が表彰台を独占した(1位:ニッキー、2位:トミー、3位:ロジャー・リー)Motorcycle-USA Staff. Nicky Hayden Bio. Motorcycle-USA.com. Retrieved on 2009-06-16.。ピオリアTTでの勝利は、ペナルティラインからスタートしたにもかかわらず、ピオリアで13回優勝しているクリス・カーを抑えての優勝となった。ヘイデンはディック・マン、ケニー・ロバーツ、ババ・ショバート、ジャレッド・メーズ、そしてダグ・チャンドラーが名を連ねる有名な「グランド・スラム・クラブ」に加わる条件となるマイル・トラックでの優勝だけ達成していない。

MotoGPでの経歴

ホンダ (2003-2008)

2003-2005

AMAスーパーバイク選手権タイトルを獲得した直後に、ヘイデンはホンダのMotoGPワークス・チームのレプソル・ホンダから、ロードレース世界選手権MotoGPクラスに参戦を開始した。チームメイトはディフェンディングチャンピオンのバレンティーノ・ロッシだった。初年度の、第13戦パシフィックGPと第15戦オーストラリアGPでそれぞれ3位表彰台を獲得。年間ランキング5位でデビューシーズンを終え、この年のルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得した。しかしは困難な一年を過ごし、第7戦リオGP、第8戦ドイツGPの2回表彰台(各3位)を獲得するが、チャンピオンシップポイントは前年を下回り年間ランキングは8位となる。には第8戦アメリカGP(ラグナ・セカ)で、グランプリにおける初ポールポジション獲得と初優勝を果たす。この年テック3から、テレフォニカ・モビスター・ホンダへ移籍したマルコ・メランドリと、最終戦までランキング2位争いを繰り広げた。

2006

はファクトリーチームのエースとして唯一先行型RC211Vを駆り、新型マシンの開発作業を一人で担いながら、シーズン序盤からタイトル争いをリードしていく。第8戦ダッチTT、第11戦アメリカGPでの2勝を含めリタイア1回という高完走率で、年間最多表彰台(10回)を記録する。

第16戦ポルトガルGPで、ヘイデンはチームメイト・ダニ・ペドロサの転倒に巻き込まれリタイア。このためチャンピオンシップ残り1戦でバレンティーノ・ロッシにポイントを逆転され、ランキング首位から2位に転落する。しかし、続く最終戦バレンシアGPでロッシが転倒、3位でゴールし5ポイント差で再逆転したヘイデンが、アメリカ人7人目となるロードレース世界選手権最高峰クラスチャンピオンに輝いた。ランキング2位が最終戦で逆転したのはのウェイン・レイニー以来14年ぶり。そして、バレンティーノ・ロッシに次ぐ2人目にして最後の990ccクラス王者となった。

2007

2006年9月22日、ヘイデンはホンダ・レーシング (HRC) とのとの2年契約を締結したHayden Signs with Honda for Two More Years article from SPEEDtv。800ccにダウンサイズされたホンダ・RC212Vを使用し、従来使用してきた車番「69」を、チャンピオンナンバー「1」にスイッチしてタイトル防衛に挑んだ。

シーズンはマシンとタイヤのセッティングに苦しみ、開幕から低迷する厳しい一年となった。第4戦ル・マンでクラッシュ、リタイアしこの時点でランキングは11位となる。しかしながら第8戦ドニントン直前のテストでヘイデンは電装系のほとんどの切り替えを要求し、そこからタイムは改善されていった。ウェットコンディションのドニントンと、ドライコンディションのアッセンでのパフォーマンスはフォームの僅かな改善を示し、トレードマークのスライディングとテールアウトも見られるようになった。第9戦ダッチTT、第10戦ドイツGP、第12戦チェコGPで表彰台(各3位)、第14戦ポルトガルGPではポールポジション1回を獲得し、結局ランキング8位でシーズンを終えた。この年は兄弟との共著で自伝「The Haydens: Nicky, Tommy, & Roger, from OWB to MotoGP」を出版している。

ケーシー・ストーナーが2007年のタイトルを獲得し、ゼッケン1を使用する権利を得たため、ヘイデンはシーズンはマイナンバー「69」に戻ることとなった。

2008

は昨年からの不調を引きずり、前半は表彰台も覚束ない状況であった。第8戦ドニントン・パークでホンダはニューマチックバルブエンジンを投入し、ヘイデンだけがこれを使用した。続くアッセンでヘイデンはスタートから3位をキープしたが、電装系システムに問題が発生し正確な燃料モニタリングができなくなり、最終コーナーで燃料切れとなった。コーリン・エドワーズがヘイデンを捉え3位に入り、ヘイデンは力の無くなったマシンでようやくフィニッシュラインを越えて4位となった。その後モトクロスでのクラッシュでかかとを負傷し、続く2戦を欠場する。この頃、チーム内の関係は既に悪化していた。そして、ダニ・ペドロサがヘイデンと相談無しにタイヤを苦戦続きのミシュランから圧倒的なブリヂストンに換えたことでもさらなる摩擦があった。ヘイデンは「私は、選択をするための状況にこれまで加えられなかった。彼らがブリヂストンタイヤを頼んで考えていただけで、私の時間を無駄にしていると言われたら...私は彼らが彼に与えたことに驚かない。それにミサノでは、ダニが持っていた同じフォークも持っていなかった...私は彼らが新しいタイヤを私に試させると思っていない。」と語った。

この一件は、ヘイデンとホンダが次のシーズンに袂を分かつだろうという噂に重みを与えた。この噂は2008年9月12日に確認された。ヘイデンはドルナの記者会見で「それは秘密ではない。私の次のストップがどこにあるのか誰もが分かっている...しかし、公式には正しい方法でやり遂げようとしている。リリースが出るまでは、なぜならチームやスタッフがいるからだ。」

2008年中頃にはすでにファンやメディア、パドックから確信されていたが、後にヘイデンは記者会見でホンダを離れ、はドゥカティ・マールボロ・チームに加入しケーシー・ストーナーのチームメイトになることを公表した。これは2008年9月15日に確認され、ホンダとの10年間の関係が終了した。

ドゥカティ (2009-2013)

2009

からはドゥカティワークス(マルボロ・ドゥカティ)へ移籍したが、序盤からマシンのセッティングに苦しむことになり、終盤にリズムをつかんで3位1回の成績を残したが、結局シーズン13位にとどまった。はマシンが安定したことにより、表彰台は3位1回だったもののシングル順位フィニッシュが増加し、シリーズ7位に成績を伸ばした。は8年ぶりにロッシをチームメイトに迎えた。前年と同様表彰台は3位1回、年間ランキングではロッシから7ポイント差の8位となった。

2012

ヘイデンとロッシはシーズンもドゥカティに留まった。ヘイデンは序盤10戦をいずれもポイント圏内でフィニッシュした。第11戦のインディアナポリスでヘイデンは、サーキットでのコースの状況によく合っていると信じており、ドゥカティチームにとって最高のパフォーマンスを期待していたが、予選タイムを改善しようとしターン14でクラッシュ、脳震盪を起こし決勝には出走できなかった。この事故で右手を負傷し、次戦のチェコGPも欠場することとなる。

負傷からは完全に回復しなかったが、公式理学療法士フレディ・デンテの支援のおかげで、ヘイデンはサンマリノGPに復帰し、7位となった。続くアラゴンGPでは最終ターンで大きく膨らみコースの壁に接触、リタイアとなった。第16戦のマレーシアではシーズンベストの4位となり、最終戦バレンシアはクラッシュしリタイア、ランキング9位でシーズンを終え、表彰台に上らない初めての年となった。

2013

2013年シーズン、ヘイデンのチームメイトはテック3・ヤマハからの移籍となったアンドレア・ドヴィツィオーゾであった。ドヴィツィオーゾはヤマハファクトリーに復帰したロッシの代わりとなった。ヘイデンはドヴィツィオーゾの加入前、ロッシに代わってチームに加わることが「最良の選択肢」だったと述べていた。

ホンダ・アスパー (2014-2015)

2014

2013年10月17日、ヘイデンは5年間在籍したドゥカティを離れ、シーズンはアスパー・レーシングチームと契約したことを発表した。チームメイトはアヴィンティア・ブルセンスから移籍した青山博一となった。両者は共にオープン仕様のホンダ・RCV1000Rをドライブする。第4戦ヘレスで手首を負傷し、第6戦のムジェロを欠場、その後も第10戦から13戦まで欠場し、最終的なランキングは16位でシーズンを終えた。

2015

シーズン、ヘイデンはアスパー・レーシングチームに留まり、新しいオープン仕様のホンダ・RC213V-RSに乗った。スーパーバイク世界選手権から転向したユージーン・ラバティがチームメイトとなった。

スーパーバイク世界選手権

2015年10月8日、日本GPのレース前記者会見で、ヘイデンは2016年シーズンにスーパーバイク世界選手権に復帰すると発表した。ヘイデンはテン・ケイト・レーシングにシルバン・ギュントーリに代わって加入し、ミシェル・ファン・デル・マルクのチームメイトとなった。

2016

プレシーズンテストでの好調な結果の後、ヘイデンはフィリップ・アイランドで第1レースを9位、第2レースを4位で終えた。第4ラウンドのアッセンでは第1レースで初の表彰台を獲得した。第6ラウンドのセパンでは予選4位となり、カワサキのジョナサン・レイ、トム・サイクス、ヤマハのアレックス・ロウズに次ぐグリッドとなった。第1レースを8位で終え、第2レースはウェットコンディションの中好スタートを切った。ターン2でロウズを抜き、カワサキの2台を追いかける展開となった。ヘイデンはターン5で外側からサイクスを抜き、レイを抜いてトップに立った。レイは4秒以上の差を付けられ、ドゥカティのチャズ・デイヴィスとダヴィデ・ジュリアーノがヘイデンを追いかけた。残り10周となってジュリアーノがレイとデイヴィスを抜いて2位に付け、トップのヘイデンは残り4周となった。最終周、ジュリアーノは1秒差まで詰め寄ったが、ヘイデンはそのままリードを保って勝利し、自身初のスーパーバイク世界選手権での勝利を獲得した。これはホンダにとってシーズン初の勝利となった。

2017

ヘイデンはテン・ケイト・ホンダ(現在はテン・ケイト・ヤマハ)に残留し、ステファン・ブラドルと共にシーズンを戦う。

ホンダのスーパーサブとして

2016年、ヘイデンはMotoGPでホンダのライダーが負傷したときにスポット参戦した。エストレラ・ガリシア 0,0 マルクVDSのジャック・ミラーがアラゴンを欠場した際に代役として参戦し、15位でフィニッシュした。

ダニ・ペドロサがもてぎで負傷し、その代役としてフィリップ・アイランドにスポット参戦、2008年以来のレプソル・ホンダのマシンでの参戦となったが、レース後半にジャック・ミラーと接触、17位でフィニッシュとなった。

死去

イタリアのリミニでサイクリングをしている最中、交通事故に遭い、重度の頭部と胸部の外傷を負う。現地の病院に搬送されたが、2017年5月22日に死去。35歳没。

栄誉

  • FIMは2015年11月、バレンシアGPの前に彼をMotoGPレジェンドに指名した。
  • サーキット・オブ・ジ・アメリカズの18コーナーを『Hayden Hill(ヘイデン・ヒル)』と名付けられ、2018年以降MotoGPアメリカズGP開催時には芝生にゼッケン69が描かれている。
  • 2018年5月22日、ミザーノ・アドリアーティコ市は、ヘイデンのメカニックを担当したデニス・パッツァリーニを中心とした友人たちの提案により、記念公園『Giardino Nicky Hayden(ニッキー・ヘイデン・ガーデン)』を、ミサノ・ワールド・サーキット・マルコ・シモンチェリ 付近に建設した。
  • 2018年6月8日、故郷のオーエンズボロ市市長が6月9日を『Nicky Hayden Day(ニッキー・ヘイデンの日)』に設定することを宣言。
  • FIMは2019年4月、MotoGPの最高峰クラスでゼッケン69を永久欠番とすることとした。

レース経歴

MotoGP

  • チーム:レプソル・ホンダ, ドゥカティ・コルセ, ドライブ M7 アスパーチーム, エストレラ・ガリシア 0,0 マルクVDS
  • 車両:ホンダ・RC211V, ホンダ・RC212V, ドゥカティ・デスモセディチ, ホンダ・RCV1000R, ホンダ・RC213V-RS, ホンダ・RC213V
  • デビュー戦:2003年4月6日 - 鈴鹿サーキット - 7位
  • 初表彰台:2003年10月5日 - ツインリンクもてぎ - 3位
  • 初勝利:2005年7月10日 - マツダ・レースウェイ・ラグナ・セカ
  • 優勝回数:3
  • 表彰台回数:28
  • ランキング最高位:1位 (2006)

スーパーバイク世界選手権

  • チーム:アメリカ・ホンダ, ホンダ・ワールド・スーパーバイク・チーム
  • 車両:ホンダ・RC51, ホンダ・CBR1000RR
  • デビュー戦:2002年7月14日 - マツダ・レースウェイ・ラグナ・セカ - 4位
  • 初表彰台:2016年4月16日 - アッセン - 3位
  • 初勝利:2016年5月15日 - セパン
  • 優勝回数:1
  • 表彰台回数:4
  • ランキング最高位:5位 (2016)

AMAスーパーバイク

  • チーム:アメリカ・ホンダ, HRC
  • 車両:ホンダ・RC51, ホンダ・RVF750/RC45
  • デビュー戦:1999年4月18日 - ウィロースプリングス・レースウェイ - 12位
  • 初勝利:2000年6月11日 - ロード・アメリカ
  • 初表彰台:1999年9月19日 - パイクス・ピーク・インターナショナル・レースウェイ - 3位
  • 優勝回数:17
  • 表彰台回数:30
  • ランキング最高位:1位 (2002)

AMA 600スーパースポーツ

  • チーム:アメリカ・ホンダ, エリオン・ホンダ, ハイパーサイクル・スズキ
  • 車両:ホンダ・CBR600F3, ホンダ・CBR600F4, スズキ・GSX-R600
  • 初勝利:1998年4月26日 - ウィロースプリングス・レースウェイ
  • 優勝回数:6
  • ランキング最高位:1位 (1999)

AMA 750スーパーストック

  • チーム:ハイパーサイクル・スズキ
  • 車両:スズキ・GSX-R750
  • 初勝利:1998年4月19日 - マツダ・レースウェイ・ラグナ・セカ
  • 優勝回数:5
  • ランキング最高位:4位 (1998)

AMA フォーミュラ・エクストリーム

  • チーム:エリオン・ホンダ
  • 車両:ホンダ・CBR900RR
  • 初勝利:1998年4月17日 - ウィロースプリングス・レースウェイ
  • 優勝回数:7
  • ランキング最高位:2位 (1999)

主な戦績

スーパースポーツ世界選手権

レース別

車両 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 順位 ポイント
1998 スズキ GBR ITA SPA GER SMR RSA USARet EUR AUT NED NC 0

スーパーバイク世界選手権

シーズン別

車両チーム出走回数優勝回数表彰台最高位ポイントランキングタイトル
ホンダ・VTR1000 SPW アメリカ・ホンダ 2 0 0 4位 0 0 16 26位 -
ホンダ・CBR1000RR ホンダ・ワールド・スーパーバイク・チーム 26 1 4 1位 0 0 248 5位 -
ホンダ・CBR1000RR レッドブル・ホンダ・ワールド・スーパーバイク・チーム 4 0 0 7位 0 0 21* 10位* -
合計 32 1 4 0 0 285
  • 現在進行中

レース別

マニファクチャラー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 順位 ポイント
R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2 R1 R2
ホンダ SPA SPA AUS AUS RSA RSA JPN JPN ITA ITA GBR GBR GER GER SMR SMR USA4 USA13 GBR GBR GER GER NED NED ITA ITA 26位 16
ホンダ AUS9 AUS4 THARet THA5 ARA6 ARARet NED3 NED6 ITA9 ITA8 MAL8 MAL1 GBR5 GBR6 ITARet ITA6 USA3 USA5 GER3 GER10 FRARet FRA9 SPA4 SPA4 QAT5 QAT7 5位 248
ホンダ AUS11 AUSRet THA9 THA7 ARA10 ARARet NED NED ITA ITA GBR GBR ITA ITA USA USA GER GER POR POR FRA FRA SPA SPA QAT QAT 10位* 21*
  • 現在進行中

ロードレース世界選手権

シーズン別

クラス車両チーム出走回数優勝回数表彰台最高位ポイントランキングタイトル
MotoGP ホンダ・RC211V レプソル・ホンダ 16 0 2 3位 0 0 130 5位 -
MotoGP ホンダ・RC211V レプソル・ホンダチーム 15 0 2 3位 0 0 117 8位 -
MotoGP ホンダ・RC211V レプソル・ホンダチーム 17 1 6 1位 3 2 206 3位 -
MotoGP ホンダ・RC211V レプソル・ホンダチーム 17 2 10 1位 1 2 252 1位 1
MotoGP ホンダ・RC212V レプソル・ホンダチーム 18 0 3 3位 1 1 127 8位 -
MotoGP ホンダ・RC212V レプソル・ホンダチーム 16 0 2 2位 0 1 155 6位 -
MotoGP ドゥカティ・GP9 ドゥカティ・マールボロ・チーム 17 0 1 3位 0 0 104 13位 -
MotoGP ドゥカティ・GP10 ドゥカティ・マールボロ・チーム 18 0 1 3位 0 0 163 7位 -
MotoGP ドゥカティ・GP11 ドゥカティ・チーム 17 0 1 3位 0 1 132 8位 -
MotoGP ドゥカティ・GP12 ドゥカティ・チーム 16 0 0 4位 0 0 122 9位 -
MotoGP ドゥカティ・GP13 ドゥカティ・チーム 18 0 0 5位 0 0 126 9位 -
MotoGP ホンダ・RCV1000R ドライブ M7 アスパー 13 0 0 8位 0 0 47 16位 -
MotoGP ホンダ・RC213V-RS アスパー・MotoGPチーム 18 0 0 11位 0 0 16 20位 -
MotoGP ホンダ・RC213V エストレラ・ガリシア 0,0 マルクVDSレプソル・ホンダチーム 2 0 0 15位 0 0 1 26位 -
合計 218 3 28 5 7 1698 1

クラス別

クラスシーズン初GP初表彰台初勝利出走回数勝利数表彰台回数ポイントランキング
MotoGP 2003-2016 2003年日本GP 2003年パシフィックGP 2005年アメリカGP 218 3 28 5 7 1698 1
合計 14シーズン 218 3 28 5 7 1698 1

レース別

()(太字はポールポジション、斜体はファステストラップ)

クラス 車両 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 順位 ポイント
MotoGP ホンダ JPN7 RSA7 SPARet FRA12 ITA12 CAT9 NED11 GBR8 GER5 CZE6 POR9 RIO5 PAC3 MAL4 AUS3 VAL16 5位 130
MotoGP ホンダ RSA5 SPA5 FRA11 ITARet CATRet NED5 RIO3 GER3 GBR4 CZERet POR JPNRet QAT5 MAL4 AUS6 VALRet 8位 117
MotoGP ホンダ SPARet POR7 CHN9 FRA6 ITA6 CAT5 NED4 USA1 GBRRet GER3 CZE5 JPN7 MAL4 QAT3 AUS2 TUR3 VAL2 3位 206
MotoGP ホンダ SPA3 QAT2 TUR3 CHN2 FRA5 ITA3 CAT2 NED1 GBR7 GER3 USA1 CZE9 MAL4 AUS5 JPN5 PORRet VAL3 1位 252
MotoGP ホンダ QAT8 SPA7 TUR7 CHN12 FRARet ITA10 CAT11 GBR17 NED3 GER3 USARet CZE3 RSM13 'POR'4 JPN9 AUSRet MAL9 VAL8 8位 127
MotoGP ホンダ QAT10 SPA4 PORRet CHN6 FRA8 ITA13 CAT8 GBR7 NED4 GER13 USA5 CZE RSMDNSIND2 JPN5 AUS3 MAL4 VAL5 6位 155
MotoGP ドゥカティ QAT12 JPNRet SPA15 FRA12 ITA12 CAT10 NED8 USA5 GER8 GBR15 CZE6 IND3 RSMRet POR8 AUS15 MAL5 VAL5 13位 104
MotoGP ドゥカティ QAT4 SPA4 FRA4 ITARet GBR4 NED7 CAT8 GER7 USA5 CZE6 IND6 RSMRet ARA3 JPN12 MAL6 AUS4 POR5 VALRet 7位 163
MotoGP ドゥカティ QAT9 SPA3 POR9 FRA7 CAT8 GBR4 NED5 ITA10 GER8 USA7 CZE7 IND14 RSMRet ARA7 JPN7 AUS7 MALC VALRet 8位 132
MotoGP ドゥカティ QAT6 SPA8 POR11 FRA6 CAT9 GBR7 NED6 GER10 ITA7 USA6 INDDNS CZE RSM7 ARARet JPN8 MAL4 AUS8 VALRet 9位 122
MotoGP ドゥカティ QAT8 AME9 SPA7 FRA5 ITA6 CATRet NED11 GER9 USA8 IND9 CZE8 GBR8 RSM9 ARA9 MALRet AUS7 JPN9 VAL8 9位 126
MotoGP ホンダ QAT8 AME11 ARG11 SPA11 FRARet ITADNS CAT12 NED17 GER14 IND CZE GBR RSM ARA9 JPN14 AUS10 MALRet VAL13 16位 47
MotoGP ホンダ QAT17 AME13 ARG16 SPA17 FRA11 ITARet CATRet NED16 GER16 IND16 CZE17 GBR12 RSM17 ARA15 JPN13 AUSRet MAL16 VAL17 20位 16
MotoGP ホンダ QAT ARG AME SPA FRA ITA CAT NED GER AUT CZE GBR RSM ARA15 JPN AUS17 MAL VAL 26位 1

私生活

  • ババ・ショバート、ウィル・デービス、ランス・アームストロングを個人的なヒーローとして尊敬している。
  • 芳賀紀行のファンであり、02年にラグナセカで行われたスーパーバイク選手権で接触し、リタイアさせたことを申し訳ないと発言している。
  • ヘイデンには2人の兄弟、トミーとロジャー・リーがいる。両名ともプロのオートバイレーサーである。また2人の姉妹、ジェニーとキャスリーンがいる。2010年、トミーはAMAに参戦し、ロジャー・リーはスーパーバイク世界選手権に参戦した。
  • ヘイデンの一家は家族全員が二輪ロードレースの経験者で、父親のアールは20年以上のダートトラックレース経験がある。母親のローズもアメリカのレディースの二輪レースで活躍していた。妹ジェニーは少女時代、ダートトラックレースでアマチュアチャンピオンになったことがある。
  • ヘイデンの車番「69」は、父アールがレースで使っていた番号でもある。アール曰く、「“69”は上下を逆にしても数字が変わらずに読める。いつもダートでクラッシュしてひっくり返ってばかりいた自分は、だからこの数を選んだんだ」
  • ヘイデンは2016年5月17日にジャッキー・マリンと婚約した。

自転車事故

2017年5月17日、ヘイデンはイタリアのリミニ近郊で自転車でのトレーニング中に車と衝突した。事故はミザーノ・アドリアーティコのvia Ca' Raffaellivia Tavoletoの交差点で発生した。ヘイデンはカ・ラッファエーリを西に向かい、タヴェレントへ向かう通りとの交差点に入ったところで車にはねられた。車の運転手は「ヘイデンが停止標識を越えて突然目の前に現れた」と供述しており、運転手は衝突を避けることができなかった。車のスピードは不明だが、ヘイデンは車のフロントガラスを完全に打ち砕いて屋根をへこますほどの衝撃であった。ヘイデンの自転車は近くの側溝で発見され、そのフレームは半分に割れていた。

ヘイデンは重傷を負いリミニ病院に搬送され、事故から4時間後の午後6時、リミニ病院のスタッフはヘイデンが外科手術を行うためチェゼーナのマウリツィオ・ブファリーニ病院の重傷ユニットに移されたと発表した。ヘイデンの父アールによると、ヘイデンは手術のため人工的に昏睡状態にされ、この事実はメディアによって広く伝えられた。ヘイデンは昏睡状態ではなかったが、病状が手術を行うにはあまりにも重症であったため手術は行われずにいた。ヘイデンの状態は外傷性の脳損傷、大腿骨と骨盤の骨折および複数の脊椎の骨折であった。5月19日、彼は生命維持装置に繋がれ危険な状態にあり、今後の治療等の展開が難しい状態にあった。そして、事故から5日後の5月22日に病院で死去した。35歳という若さであった。

参照

外部リンク

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 | 最終更新:2023/11/03 08:39 UTC (変更履歴
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