藤島泰輔 : ウィキペディア(Wikipedia)

藤島 泰輔(ふじしま たいすけ、1933年(昭和8年)1月9日 - 1997年(平成9年)6月28日藤島 泰輔とはコトバンク。2019年7月11日閲覧。)は、日本の小説家、評論家、新聞記者。ポール・ボネ名義の著作も多数刊行。ジャニーズ事務所元名誉会長のメリー喜多川は2番目の妻。同事務所元社長の藤島ジュリー景子は娘。

来歴

日本銀行監事の藤島敏男・孝子夫妻の長男として東京府東京市に生まれる『昭和人名辞典 第1巻 東京編』、856頁。。生母・孝子の死後、継母・紀子(父・敏男の後妻)に育てられる。

初等科から大学まで学習院に学ぶ。皇太子明仁親王の学友の一人で、共にエリザベス・ヴァイニング(ヴァイニング夫人)の教育を受けている。ただ大学卒業後は疎遠であったという。

1955年(昭和30年)3月、学習院大学政経学部卒業。東京新聞社(現:中日新聞東京本社)に入社。社会部記者となる。

1956年(昭和31年)4月、学習院高等科時代の皇太子と「ご学友」たちを題材にした小説『孤獨の人』を出版。同作には「ご学友」たちのヴァイニング夫人への反発や知られざるエピソードなどが盛り込まれている。三島由紀夫が序文を寄せ、「うますぎて心配なほど」と評価している三島 1975a三島 1975b。同作は翌年に映画化され話題となった。

1958年(昭和33年)、独立前のケニアやウガンダを旅行。帰国後、同年8月に『アフリカ紀行』を出版。

1963年(昭和39年)、高浜虚子の孫の朋子と結婚『週刊新潮』1974年(昭和49年)9月5日号『結婚』『週刊新潮』1997年(平成9年)7月10日号『墓碑銘』。結婚当時は朋子と円満に暮らしていたが、その後メリー喜多川と内縁関係となる。

1966年(昭和41年)7月20日、メリーとの間に長女・藤島ジュリー景子が誕生する。その後東京新聞を退社し、作家専業となる。フランス・パリでの生活体験を元に「在日フランス人」ポール・ボネ名義で著した『不思議の国ニッポン』シリーズ、海外生活を題材にしたエッセイ・旅行記など多数の著作を発表。

1967年(昭和42年)、『週刊読売』に『忠誠登録』を連載。同連載は戦後日本で最初に日系アメリカ人の強制収容の歴史を伝え、社会問題化したものだと言われる。また社会評論家としても活動した。評論家としては大宅壮一の門下生である。右派・保守系の論陣を張り、『文藝春秋』や『諸君!』などに論考を寄稿。

1968年(昭和43年)、石原慎太郎が第8回参議院議員通常選挙に全国区から自由民主党公認で立候補した際、石原を全面的に支援し、代理の演説も引き受けた藤島泰輔「衆愚の時代―あァ、参議院選挙!」 『月刊カレント』1983年7月号、潮流社、24-27頁。。石原はトップで初当選した。

1970年(昭和45年)にエベレスト・スキー隊総本部長としてヒマラヤ山脈遠征。

1971年(昭和46年)、内妻・長女とともにアメリカ・フロリダ州に移住し、アメリカ生活を体験した。

1972年(昭和47年)、朋子と正式に離婚。その後メリーと正式に再婚した。

1973年(昭和48年)、日本に帰国。月刊誌『浪曼』に参与(昭和50年2月号で休刊)

1974年(昭和49年)、日本ペンクラブを代表する形で仏文学者白井浩司と韓国を訪問、朴正煕独裁政権下で行われた詩人金芝河への死刑判決を「金芝河の有罪は文学活動ではなく、政治活動によるもの」とコメント。ペンクラブからは有吉佐和子司馬遼太郎立原正秋などが脱会、理事だった安岡章太郎阿川弘之が辞意を表明するなど、運営に大きな混乱を起こした。

同年5月29日、前回の衆院選で落選した旧東京4区の小峰柳多が死去。小峰が所属していた自民党派閥から話があり、小峰の地盤を継承。次期衆院選に立候補するため、選挙区内(渋谷区、中野区、杉並区)に事務所を開設した藤島泰輔「衆愚の時代―選挙の内幕」 『月刊カレント』1983年4月号、潮流社、64-67頁。。菓子折りを持って地元の町内会や商店街を回ったときのことを藤島はのちに「この連中の品性下劣なこと、同じ東京に、これほど程度の悪い人種が棲息していたのか、なるほど東京は広いと感心した」と綴っている。心の中で「無知蒙昧の輩」「選挙民は箸にも棒にもかからぬ馬鹿ども」と毒づきながら約1年間活動を行うが、資金が枯渇したため出馬を断念した。

1977年(昭和52年)、第11回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で全国区に立候補。新日本宗教団体連合会関連諸団体の推薦を取り付けるなどして188387票を獲得。法定得票数に達したが66位で落選した。

1981年(昭和56年)、景子のアメリカ留学に同行し、再びアメリカで生活する。

1992年(平成4年)、天皇の中国訪問に反対する小田村四郎・大原康男・小堀桂一郎・中村粲らによる「ご訪中問題懇話会」が組織されると、谷沢永一・古山高麗雄らとともに賛同。訪中反対の意見広告に名を連ねる。

1996年(平成8年)、ガン(食道癌)告知を受け、1997年(平成9年)6月28日、都内の病院にて死去。。

人物

  • 日本文藝家協会、日本ペンクラブ、日本放送作家協会、アメリカ学会各会員。
  • 三島由紀夫とは学習院の先輩後輩で親しくしていた。三島からは「君は皇太子の友達なんだから直接意見してきたらどうか」と度々からかわれていたという。三島の自決後から間もない1970年12月11日に行われた「三島由紀夫氏追悼の夕べ」では代表発起人に名を連ね、司会も務めた。
  • 競走馬ランニングフリーの馬主、旅行家など多方面に活躍。たびたび海外を旅行し、訪問国数は80か国を超えた。
  • 資産家としても知られ、通常は妻子とともに東京都港区六本木鳥居坂の高級マンションで暮らしていたが、アメリカ・フランスなどにも別宅を持っていた。長者番付の常連でもあった。
  • 1983年6月に戸塚ヨットスクール事件が発覚し、戸塚宏がコーチと共に監禁・傷害致死の容疑で逮捕されると、『月刊カレント』に連載中のコラムで事件に言及。「私は戸塚宏さんという人には会ったことがない。会ったことはないが、えらい人だと思っている」「もう一度、戸塚ヨットスクールを復活させようではないか」と綴った藤島泰輔「衆愚の時代―戸塚さんに最敬礼」 『月刊カレント』1983年11月号、潮流社、56-59頁。。

家族・親族

藤島家

後妻のメリー喜多川は1950年代から四谷三丁目の円通寺坂入口右手の角にあった「スポット」という名のカウンターバーを経営していた。その頃、バーの客であった藤島(当時東京新聞記者)と男女の関係になる。1972年(昭和47年)に藤島が正式に離婚したのち、結婚した。作家仲間の間ではおしどり夫婦として知られたという。

娘の景子は2004年(平成16年)に芸能界とは無関係の一般男性と結婚。男性は婿養子として藤島家に入った。景子は2004年(平成16年)暮れ、泰輔・メリー夫妻の孫となる女児を出産している。

藤島は草創期のジャニーズ事務所を経済的にバックアップし、マスコミ・政財界関係者など自身の知己も紹介、ジャニー社長の業界関係者への人脈拡大を手助けしたといわれる。

藤島昌平は父・敏男の弟。昌平の妻は三沢信一の三女。三沢の次女は下河辺牧場の創業者・下河辺孫一と結婚したため『財界家系譜大観 第6版』、432頁。『財界家系譜大観 第7版』、382頁。『財界家系譜大観 第8版』、404頁。、下河辺は昌平の義兄にあたる。

義理の叔父山口利彦は山武ハネウェル(旧・山武商会、現・アズビル)の社長・会長を歴任した『昭和人名辞典II 第1巻 東京編』、870頁。。利彦の妻が泰輔の父・敏男の妹・千代。山武商会創業者・山口武彦は利彦の父。

義理の従弟・福澤雄吉は福澤堅次・綾子夫妻の長男『門閥 旧華族階層の復権』、262-263頁。。雄吉の妻が山口利彦・千代夫妻の長女で泰輔の従妹。雄吉の父・堅次は福澤諭吉の孫で元三菱瓦斯化学取締役。雄吉の母・綾子は岩崎弥太郎の孫娘で岩崎久弥の三女。

  • 祖父・範平(1871年 - ?、三重県人、旧姓・山内、帝国海事協会理事長[ 『人事興信録 第13版 下』]フ61頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年7月11日閲覧。、工学博士、横浜船渠社長)
  • 父・敏男[ 『人事興信録 第15版 下』]フ16頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2019年7月11日閲覧。(1896年 - 1976年、日本銀行員で、熊本支店長、文書局長を経て、1947年、日本銀行監事、住所は東京都新宿区諏訪町)
  • 実母・孝子(1909年 - ?、東京、川原五郎の長女)
  • 継母・紀子(1911年 - ?、東京、関場保の妹)
  • 先妻・朋子(俳人高浜虚子の孫娘で俳人高浜年尾の三女、結婚後まもなくメリー喜多川と内縁関係になり、1972年に朋子と正式に離婚)
  • 後妻・メリー泰子メリー喜多川、ジャニーズ事務所名誉会長、1926年 - 2021年)
  • 長女・ジュリー景子(ジャニーズ事務所元社長、ジェイ・ストーム代表取締役会長、1966年 - )
親戚
  • 母方の祖父・川原五郎(日本鋼管顧問、横浜高等工業学校教授)
  • 義弟・ジャニー喜多川(ジャニーズ事務所創業者)
  • 叔父・藤島昌平(英文学者)
  • 義理の叔父・山口利彦(山口武彦の二男)
  • 義理の従弟・福澤雄吉(福沢諭吉と岩崎弥太郎の曾孫)

著書

単著

共著・編著・共編著

  • 「猛獣と草原の国を行く」-
  • 「アンコール」-
  • 監修『実録・今上天皇 天皇裕仁と激動の昭和史』ゆまにて出版、1983年11月。

翻訳

ポール・ボネ名義

  • 『不思議の国ニッポン』 シリーズ vol.1-22、ダイヤモンド社、1975年-1996年。
    • 『不思議の国ニッポン』 シリーズ vol.1-21、角川書店〈角川文庫〉、1982年-1996年。

注釈

出典

参考文献

  • 人事興信所編『人事興信録 第13版 下』人事興信所、1941年。
  • 人事興信所編『人事興信録 第15版 下』人事興信所、1948年。
  • 三島由紀夫「藤島泰輔著「孤独の人」序」、
  • 三島由紀夫「うますぎて心配(藤島泰輔著「孤独の人」)」、

関連項目

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