永井柳太郎 : ウィキペディア(Wikipedia)

永井 柳太郎[ 『粛正選挙代議士名鑑』]100頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年11月27日閲覧。(ながい りゅうたろう、1881年〈明治14年〉4月16日 - 1944年〈昭和19年〉12月4日)は、大正から昭和にかけて活躍した日本の政党政治家。憲政会・立憲民政党所属。大日本育英会(現:日本学生支援機構)創立者。族籍は東京府士族(旧加賀藩士)[ 『人事興信録 第7版』]な106頁(国立国会図書館デジタルコレクション)。2020年11月27日閲覧。。

来歴

石川県金沢の貧しい小学教員の家庭に生まれる。石川県士族・永井登の長男。

旧制石川県尋常中学(現石川県立金沢泉丘高等学校)、同志社中学、関西学院普通学部を経て早稲田大学を卒業。在学中早稲田大学雄弁会に所属し、同会での演説が大隈重信に認められ、ユニテリアン団体の支援によりマンチェスター・カレッジ(現・ハリス・マンチェスター・カレッジ (オックスフォード大学)に留学。帰国後は母校早稲田大学で植民学の教鞭をとったが、早稲田騒動で「天野派幕僚中の謀士」とみなされ、教授職を罷免された『早稲田大学百年史』 第二巻、947-948頁。

1917年(大正6年)の第13回総選挙で石川県第1区に憲政会から立候補するが、政友会の中橋徳五郎に203票差で敗れる。中橋が大阪9区に回った1920年(大正9年)の第14回総選挙では政友会の米原於菟男を破って初当選した佐久間竜太郎 編[ 『北陸人物名鑑 大正11年版』124頁]。以後連続8回連続当選。民政党幹事長、斎藤内閣の拓務大臣、第1次近衛内閣の逓信大臣を務め、阿部内閣では鉄道大臣と逓信大臣を兼任した。

民政党内では親軍派の中心におり、聖戦貫徹議員連盟に参加。近衛文麿主唱の新体制運動にもいち早く呼応し、1940年(昭和15年)には同志議員35名とともに民政党を離党。民政党解党・大政翼賛会合流の先鞭をつけた。

大政翼賛会では常任総務・東亜局長を務めた。1943年(昭和18年)、大日本育英会創立とともに会長に就任。

1944年(昭和19年)12月4日、慢性腹膜炎のため大東亜中央病院で死去『朝日新聞』 1944年12月5日。道雄の話では、東京で空襲が本格化する状況下、「国民に申し訳ない」と言い残して永眠したという。墓所は野田山霊園。

人物

貧しい小学教員の家庭に生まれた永井は青年時代から「貧しい者の為に自分の一生を献したい」という気持ちになったという。

大隈と同様、グラッドストンを深く尊敬しており、1922年(大正11年)には[ グラッドストンの伝記]を著している。またグラッドストンの反帝国主義思想を受け継いで拓相在任中には帝国主義政策の改善にあたった杉原(1995) p.237。

荘重さを本領とする雄弁家として知られ、歯に衣着せぬ演説で高名だった中野正剛と対称をなした。また敬虔なクリスチャンでもあった。1982年(昭和57年)5月3日放送のNHK特集「昭和の名演説」に出演した二男の永井道雄によると、柳太郎は演説の前には必ず「演説によって一人でも多く良い影響を与えられますように、また一人でも悪い影響を与えませんように」と祈りを捧げていたという。また演説は「お金の代わり」、すなわち金銭によらない選挙を実現するための道具と捉えていたという。

栄典

著書

単著

共著

翻訳

家族・親族

永井家
  • 父・(石川士族)
  • 妻・次代(1887年 - ?、東京士族、三浦徹の長女)
  • 二男・道雄(1923年 - 2000年、教育社会学者) - 三木内閣の文部大臣を務めた。
親戚
  • 妻の父・三浦徹(日本基督教会の牧師)
  • 従弟・永井外吉(駿豆鉄道社長) - 西武グループ総帥の堤康次郎の義弟(外吉の妻・ふさ子は堤康次郎の妹)。
  • 孫・鮫島宗明(民主党の衆議院議員)

政策・主張

政見綱領

社会改造を念願とし、日本の内治外交を建て直し、即ち国民生活の再建設、国民能力総動員に因って最高度の生産能率を挙げ、経済組織を改め新社会を造り、同時に過去数世紀白人種の暴圧に虐げられたアジア民族を解放し、新興アジアの建設を使命とする。

手がけた政策

  • 特別科学学級 - 1944年(昭和19年)9月9日建議、同月11日可決。

語録

  • 「来たり、見たり、敗れたり」
    • 1917年(大正6年)の第13回総選挙で落選した際に金沢兼六園内でおこなった敗北報告の演説より(シーザーの戦勝報告「来た、見た、勝った (Veni, Vidi, Vici)」をもじったもの)。
  • 「西にレーニン、東に原敬
    • 1920年(大正6年)の初当選後に衆議院で初めて行った演説より(「選挙の天才」原総理率いる政友会が第14回総選挙で地滑り的大勝を収めたことを受けて、原を独裁者レーニンに喩えたもので、永井はこの演説で初に懲罰を受ける羽目になった)。

出典

参考文献

  • 人事興信所編『人事興信録 第7版』人事興信所、1925年。
  • 『粛正選挙代議士名鑑』選挙粛正中央会編纂部、1936年。

外部リンク

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