『あらののはて』と完成しなかった絵
映画を観終えた後、ずっと気になっているものがある。
それは恋でもない。
失恋でもない。
一枚の絵だ。
『あらののはて』は、八年前の出来事に取り残された野々宮風子が、自分の中に残り続けた感情と向き合う物語である。
彼女は大谷荒野を探していたようでいて、本当に探していたのは当時の自分だったのかもしれない。
あの時、自分は何を感じていたのか。
恋だったのか。
憧れだったのか。
勘違いだったのか。
それを確かめるために、八年という時間を越えて再び歩き出した。
だから物語の終わりに野々宮は解放される。
「あ~あ、またフラれちゃった」
あの言葉が適切だったのかはわからない。
しかし少なくとも彼女は、止まっていた時間を動かすことができた。
一方で、私にはもう一人、気になる人物がいた。
大谷荒野である。
彼はなぜ野々宮を描こうとしたのか。
なぜキスをしたのか。
なぜ絵を描かなくなったのか。
映画は最後まで明確な答えを与えない。
当初、私はそこに不満を感じていた。
完成した絵を見せてほしかった。
大谷の気持ちをもう少し知りたかった。
しかし考え続けるうちに、その思いは少し変わっていった。
私は恋愛の答えが欲しかったわけではなかった。
知りたかったのは、大谷という人間の輪郭だった。
考察を重ねるうちに、ひとつの可能性が浮かんできた。
大谷は野々宮を好きだったのではなく、描きたかったのではないか。
絵を描く人間には時に、理由の説明できない衝動がある。
好きだから描くのではない。
描きたいから描く。
しかし描くという行為の中で、自分自身の欲望や独占欲のようなものを見てしまったとしたらどうだろう。
野々宮を見ていたつもりが、自分自身を見てしまった。
そしてキスという行為によって、その感情が決定的な形で現れてしまった。
もしそうなら、大谷が失ったのは恋ではない。
絵に対する純粋さだったのかもしれない。
彼にとってあの未完成のデッサンは、青春の思い出ではなく、自分が何かを失った瞬間の傷跡だったのではないか。
そう考えると、絵をやめたことも少し理解できる。
もちろんこれは私の解釈に過ぎない。
映画はそこまで語っていない。
だからこそ私は、完成した絵を見てみたかった。
ただ面白いことに、考え続けた結果、今では逆のことも思うようになった。
完成した絵は見せられなかったのかもしれない。
劇中でマリアは、未完成のデッサンを見て野々宮だと理解していた。
つまり未完成の時点では、確かに野々宮が描かれていた。
だが完成品はどうだったのだろう。
もしかすると、大谷はその余白に、ただりんごを描いただけだったのかもしれない。
野々宮ではなく。
自分の恋心でもなく。
ただそこにあったりんごを。
もしそうだったなら、この映画はまったく別の顔を見せる。
野々宮は八年間、自分が描かれたと思い続けていた。
前田もそう思った。
観客もそう思った。
しかし大谷が最後に描こうとしていたものは、最初から別の場所にあったのかもしれない。
もちろん真実はわからない。
映画はその答えを示さない。
だから私は今でも、あの絵について考えている。
そしてそのこと自体が、この作品の魅力であり、同時に弱さでもあると思う。
余白とは、観客に考える余地を与えることだ。
しかし観客が深く考え続けなければ辿り着けないのであれば、それは説明不足と紙一重でもある。
『あらののはて』は、その危うい境界線の上に立っている。
だから私はこの作品を批判したいわけではない。
むしろ意見を言いたいのだ。
もう少しだけ大谷を見せてほしかった、と。
その一方で、見せなかったからこそ私は今もあの絵について考えている。
結局のところ、あの完成しなかった絵こそが、この映画そのものだったのかもしれない。