コード・アンノウンのレビュー・感想・評価

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5.0コミュニケーションの不可能性

2023年3月10日
PCから投稿

202302 555
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印象に残ったシーンや描写:
・冒頭シーンで出題した聾唖の女の子の仕草と表情
・地下鉄で移民の黒人青年に唾をかけられるビノシュ
・飼っていた牛たちを屠殺した父親
・近隣から聞こえる泣き声に幼児虐待を疑い心配するが何もしないうちに、その子が(多分)亡くなり、真偽も不明である一連の物語
・聾唖の子ども達による攻撃的な太鼓の音とリズム

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書籍『ミヒャエル・ハネケの映画術』より、一部

(副題『いくつかの旅についての未完の物語』を考えるにあたり、同じく不完全な物語というアイデアで以前に撮った群像映画『71フラグメンツ』との類似性について)
こう言ってよければ、『コード・アンノウン』は『71フラグメンツ』のフランス版リメイクなのです。当時のフランスの日常生活で起こりそうな、典型的ないくつかの話を組み合わせています。しかも、今日に至るまで、私がそのために下調べをしなければならなかった唯一の映画です。フランスに移民してきたアフリカ人及びルーマニア人のコミュニティについて、私は一切知りませんでした。私は両コミュニティの行動様式を3カ月間観察して、脚本の一行目を書きはじめました。この映画で最も誇りに思っているのは、上映終了後、下調べのときにインタビューを受けてくれた学生のひとりが、白人が黒人社会についてこれほど正確に描くことができるとは思わなかったと打ち明けてくれたことです。
同じく、農場の話は、ピエール・ブルデューの『世界の悲惨』という本から着想を得ました。そこには、飼っている家畜を屠殺しなければならない農民たちの絶望が描かれていました。

作品全体をシークエンス・ショットで撮影することは脚本執筆の段階から決めていました。『71フラグメンツ』ではそれができませんでしたし、そうすることで新たな挑戦になると考えたのです。
断片化というアイデアに厳密であろうと配慮していました。つまり、各断片を一つの全体とし、それぞれを1シークエンス・ショットで撮ることです。

冒頭シーンの聾啞の子どもたちの回答「ひとり」「隠れ家」「ギャング」「良心のとがめ」「悲しみ」「引きこもり」等は、これから映画の中で扱われる主題を予告しています(オペラの序曲のように)。もっと簡単に言えば、このシークエンスは「ドゥ・ポワン」(引用の前などに用いられる符号)で終わる文章のようなもので、映画の続きはこのシークエンスで言われたことを展開していくのです。そして最終的には、物語はこの子どもたちの集団と、何かとても大きなことを説明したいと思っているひとりの少年に戻ってくるのです。この少年が何を伝えようとしているのかを、今度は、観客は自分ひとりで解読せねばなりません。子どもたちのリアクションを映すショットはもうありませんからね。

脚本を書くとき、私はいくつかの音楽的技法、例えば、省略法、反復法、対位法などを用います。とりわけ構造が否応なく複雑になってしまう群像映画のときはそうです。群像は、一方では、各シークエンスに本質的な点だけを描けばいいので、より簡単です。しかし他方では、観客が各物語の糸をちゃんと追っているかに注意しなければならないので、より難しくもあります。ひとつのシークエンスが長すぎると緊張が切れてしまいますし、放置した地点から再び物語を始めるには、観客に興味を取り戻させる予期せぬシチュエーションを作らねばなりませんから。

登場人物たちは全員、他の人にはわからないコードを使って動いている。それは人々が分断されるバベルの塔の神話です。本当の意味では決して誰もコミュニケーションなどできない。人から人へと変われば、仕草も言葉も同じ意味を持っていないからです。他者と同じ考えになるなんて、性器と音楽を通じて以外、決してありえないのです。もちろん、これらの領域でもごまかしはあるでしょう。しかしその関係の深さは、あらゆる語が誤解の原因になってしまう言語を使ったコミュニケーションで交換されうるすべてを超えています。

子どもの頃に父に会ったのは一度きりで、4~5歳の時、戦後すぐの1946~47年頃です。当時、オーストリアとドイツは「ゾーン」に分けられて、イギリス、フランス、ロシアといったさまざまな占領軍に分割統治されていました。私たち家族はザルツブルグに、父はドイツにいて、互いに行き来する権利がなかったのですが、二つの国境詰所の間で会うことが許可されました。お互いに「こんにちは!」と言いました。少し馬鹿みたいだなと感じていました。
伝記が作品を説明しないことの証明です。私の映画の中で個人的な体験と結びついている唯一のものは、あらゆる形の暴力の拒否とそれへの恐怖です。それから、コミュニケーションにかかわる一切に対する大いなる不信です。

いつものことですが、この映画を作りながら気をつけていたのは、解釈の余地を最大限残しておくことです。観客は、画面に映されたものから、自分自身の考察を進めていいのです。結末については特に注意しなくてはなりません。監督の視点に閉じてしまうことなく、逆に観客が自らの視点によって結末を補うように仕向けなければなりません。私の意見では、これこそが観客と接触し続けるための唯一の方法なのです。
つまり、副題の『いくつかの旅についての未完の物語』には、観客が自由にこの映画を解釈していいのだと示されているのです!

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『71フラグメンツ』
DVDに収録されたハネケのインタビューより、一部

断片からしか現実は理解できない。日常的にも人々はそれを分かっている。人は僅かしか見ず、僅かしか理解しない。何もかも分かってると言い張るのはメジャー映画だけだ。20世紀、少なくとも20世紀後半の文学において、全体を知っていると主張してものを書く作家はもはや存在しない。誠実に物語れるのは断片においてだけだ。小さな断片を示し、その総和が観客に向かっていささかの、個人の体験に基づいて考える可能性を開く。つまり観客を挑発するのだ。感情や思考の機械を回転させ、起動させるのだ。

ドラマツルギ―として人は明晰な一つの方法を見つけたがる。人はある状況を正確に語るが、そんな典型的な状況などありはしない。指差して「見ろ、これだ」というような状況は。それはエクリチュール、即ち文学の仕事だ。納得のいくような、わざとらしくない典型的な状況を見つけるのは、時々は成功し、時々は失敗する。危険だ。

映画は「全体」だと言われる。ある人物はこうだと。そうじゃない、こうでもあり得る、こうでもあり、こうでもない。矛盾がある。それが人生の豊かさであり、作品のイラつくところだ。人は作品の中で答えを与えられることに慣れているが、人生で答えが分かることなど決してない。こうだろうと想像できても、その想像は全く違っている。

音楽には一つの主題があり、対立する主題がある。その音楽の構造によってソナタの世界が開けていく。ドラマツルギーをもつ作品、心理的背景は、それと同じだ。観客はどう反応するか。映画を作るときは常に観客の反応を意識すべきだ。私は典型的な、誰もがよく知っている断片を描きたい。知っていることと理解することは別物だ。

(シーンの長さについて)例えば卓球のシーンだ。あの場面が情報として撮られてるのなら、「青年が卓球をしている。1分続くが、終わり」だ。だが違う。場面はそれが持つ長さだけ続くのだ。それによって人は別のことを理解する。構造の秘密とは長さだ。想像しながら長さを見つけ出すこと。私が観客ならこれを見て、どう反応するだろうかと。
私は卓球のシーンを見ている。そして言う、「もう分かった、普通なら次のシーンだ」。最初は楽しんで、そのうち腹が立つ。次に飽きてくる。「先に進もう」と声が出る。そして、ある瞬間、見つめはじめる。それから呼吸するのだ。シーンはそれが持つ長さだけ続く。難しいのはその長さだ。この長回しでも、別の作品の別のシーンでも同じこと。それが秘密。音楽的な問題だ。

暴力を描写しなければしないほど、ずっと暴力そのものを感じる。そして、美と優雅さも… まあ好きに呼んでいいが、直接、描写しないことで、もっとそのものを感じることができる。それらが存在するのは… この場合、それを形而上学的と言ってもいい。もし今日私が「美」を描こうとするなら、たちどころに嘘になる。唯一、それを描写しないことで、観客の反応を引き出すことができる。
生徒にはいつもこう話す、「ビリヤードをするとき直接球を打つか、クッションに当てるか」。クッションに当てる方が良い。

例えば今、ある神学の大学が、私に関する2冊目の本を出す。彼らには私の映画が、神学的に興味深いらしい(笑)。それが偶然だとは思わない。私はカトリックでもなければ、信者でもない。だが勿論、私の映画は、よりよい世界への希求を表現している。当然のことだ。もし現世に満足なら、芸術は、少なくとも演劇芸術は決して今の状態に満足していなかった。当然だ。偽りに対して常に反抗すべきだ。悪や全てに対して。

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HAPICO