劇場公開日 2019年9月6日

  • 予告編を見る

「恐怖を超えるには」フリーソロ andhyphenさんの映画レビュー(感想・評価)

4.0恐怖を超えるには

2019年10月3日
iPhoneアプリから投稿
鑑賞方法:映画館

「フリーソロ」、ロープも道具もなしに己の身体のみでクライミングすること。失敗したらほぼ確実に死ぬ。
アレックス・オノルドは何か(例えばスリル)に取り憑かれたような人間ではない。ただ純粋に上へ上へと挑戦し続けている。見ている方はスリルどころではない恐怖なのだが、彼は恐怖を超えようとする。どうやって超えるかといえば、ひたすら練習して計画するのだ。クライミングというのはあれほど緻密な計算なのかと驚いた。競技として確立しているのだから当然といえば当然なのだが、どことなく感覚的なものかと思っていた。掴む場所、指の位置、足の替え方。全てを自分の中に叩き込むことで失敗=死への恐怖を超えるのだ。並大抵のことではできない。ただ体力をつければいいものでもない。
彼の周囲の人間関係にも考えさせられるものがあった。恋人は...難しい。彼女は並以上に精神力が強いことは確かだが、本音を語るその姿を見ていると、「この先」について考えてしまう。この映画はとても素晴らしいところで終わってはいるが、この先同じことが繰り返されることに耐えられるのだろうか。恐らく彼が最初に「断念」したのは、ある程度彼女が影響していると考えてしまった。そこからどう関係が変化したのか、実のところ映画だけではよく分からないのだが。情とは厄介なものだなと感じてみたり。(彼女が「クライミングと恋愛が両立できる」というのを複雑な思いで見てしまった)。
ラストのエル・キャピタンへのフリーソロ・クライミングは圧巻。とはいえただの観客である私でさえも、カメラマンのように「見ていられない」気持ちにさせる恐怖だ。しかし本人は何かを克服したかのようにある意味軽々と登る。恐怖を超越するということをこの目で見た。
疑問といえば...あのユニコーンは何だったのかと、フリーソロで稼ぐとはどういう形なのかということ。プロクライマーとしてスポンサーがつくのだろうか?執筆や講演で稼ぐのか...あれほど孤高の生き方を「売る」というのはどういう感情なのだろうか、とふと思った。
そしてそれを「撮る」こと。撮ることがクライミングに干渉する危険を承知しつつも撮る、その姿勢。恐らくこうして完成したものを観ている人間には分からない葛藤があるのだろう。それでも登るのをやめられず、撮るのもやめられない。ある意味人の業が蓄積した映画ともいえるだろう。

andhyphen