劇場公開日 2019年8月23日

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「生殖の行方」火口のふたり かぴ腹さんの映画レビュー(感想・評価)

2.0生殖の行方

2019年9月11日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

女優の裸で客をつる映画かと思って最初は興味がなかったが、故郷の秋田を舞台にするということで足を運んだ。
秋田の玄関引き戸の音、あー秋田だ、と。内装の部材、間取り、柄本佑の実家は秋田に多くある典型的なつくりで懐かしかった。
柄本佑は秋田弁がうまかった。多分、瀧内公美は発音ができなかったのだろう。母音が違うからね。

震災の話が出てきたとき、最近この話題を映画にすることが多いなと、話題の強引さを感じたが、実はそうではなかった。震災のときの傍観者だった秋田をうまく表現していたと思う。もちろん、ボランティアなど協力したひとも少なくないだろうけれど、秋田は何かにつけて傍観者であったような、そんな孤立感を感じていた。

戊辰戦争のときは東北の中で新政府側についたし、“やませ”の吹かない秋田は岩手、宮城に冷害が起きてもほとんど被害を受けない。そして今回の震災もそう。「東北」とくくられるなかに秋田はなにか”悲劇とは無縁”の居心地の悪さを感じてしまう。
そんな第1次産業の豊かさにかまけて戦後の高度経済成長、バブル経済などの好況からは取り残され、テレビで流れてくる「日本」はべつの国のことではないか?フィクションではないか?と思うほど日常と乖離した世界だった。おそらくこの映画に出てくるような富士山の噴火や首都直下地震、東南海地震など、日本に壊滅的な事件が起きたとしても、秋田はまた傍観者のように日々暮らすことだろう。
厳しい冬をじっと黙ってしのげば豊かな大地の恵みを享受していける、テレビに映っている繁栄や時代を追い求めさえしなければ。そうするうちに、子供達は故郷を離れ、空き家の町となり、そして人の代わりに熊が里にやってきた。

そんな人生に多くを求めない土地柄で性愛を欲望のはけ口とした逸話は郷土書の棚をみれば散見する。実際にそのような県民性と言えるかはわからない。子供のときにしか秋田にいなかったせいだろうか。性欲に溺れている郷土の知人は一人しかいない。それが他県より多いのか、少ないのか。

「身体の相性がいい」とは実際にあると友人から聞いた。男が一方的にやりたいのはわかるが、相手もそうらしいとのこと。それは幸せでなによりだ。この映画に出てくるような性のむさぼりはあっても不思議ではないし、目新しいものでもない。食と排泄、生と死(盆踊り)、動物的とも言える根源的欲求をさらけ出しても、この映画に嫌悪を感じさせないのはさすがだな、と思った。写真をとる性的嗜好とそれをとっておく嗜好。この性における男女の微妙なずれがこの歳になっても未知の部分である。
お互いの身体を求め合う時期はどのカップルも経験することだろう。だが、そのあと、とくに子供をもうけてから、女性は裏切りのように性欲を拒否するようになることは少なくない。予想外の豹変に男は困惑するばかりだ。この映画の幸せな性愛、瀧内公美の子供願望は原作者、脚本家など、男の想像の範囲だが、なんだか最近これらがあやしい。

川上未映子や村上紗矢香を読んで、「産む性」に対する違和感が女性の中にあると知らされた。女性が時折見せる性愛への嫌悪がこのためかもしれない。
人工授精はすでにできる。人工子宮ができれば女性はそれから解放されるかもしれない。女性はそれを望んでいるのだろうか。
女性の本願は「男性の欲望からの解放」なのか。古代では文明を築くために略奪の対象だった。宗教的戒律、恋愛という昇華のもと、暴性は否定されてきたがロリータ・コンプレックスなどの異常性癖は文学として存在を認められつつも、法は否定している。男はロマンスだと思っていたキャリアがらみの恋愛は#MeTooで大きな勘違いだったと。普通の恋愛をしても、実は性愛は求めていないのではないか。子供をつくるためにも、できれば性行為はしたくないのでは。男性社会が作り上げた「恋愛像」、「家族社会」を女性に擦り込んで、実は南アジアの集団レイプと変わらないことを品良くやっているのが現代社会なのかもしれない。モア・リポートの「女性の性欲」など本当は社会習慣が作り上げた幻想で、本当は単性生殖、アマゾネス社会を求めているのではないかとすら考えてしまう。
「望まない妊娠」から「望まない性行為」からの逃走。「草食系」はそんな時代の男の進化なのかもしれない。

瀧内公美の性欲は男の幻想か、女の秘めた願望か、どちらに属するものなのか悩ましい時代になった。

かぴ腹