劇場公開日 2019年3月15日

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「たんなるレイシズム」Bの戦場 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)

1.5たんなるレイシズム

2020年8月17日
PCから投稿

ブスが笑いの対象になる話は世界ひろしといえども日本だけではあるまいか。アグリーベティだって眼鏡でブリッジの子が活躍するドラマってだけのことで顔にことさら焦点はない。タブーおかまいなしのリッキージャーヴェイスだって美醜には触れない。

民間には美醜がある。しかし公的な映画やドラマで、ブスということばを用いて、まさにブスを描く国は日本だけだと思う。

富田望生を起用したブスの瞳に恋してるや宇宙を駆けるよだかにも言える。
いずれも、不器量な子が酷い目に遭うけど、結論として調和へ持っていく、というような話であろう──と思う。

この手の話は、人は外見じゃないと結論付けていながら、じっさいには外見を偏重する社会を助長している。たんに笑いものにしているのであって、庇う気なんてさらさらない。
よくもまあ、こんな差別奨励ドラマが、堂々と放映されているもんだ──と思う。

ネットではひとをブスよばわりすることがふつうにある。ドラマにブスやぶさいくがいるわけだから許容されると信じられている──わけである。
たとえばおっさんにしても、どこのドラマでもおっさんはさえない。ゆえにおっさんと邪険にして許容されると信じられている──わけである。

外国はuglyに慎重で、ワンダーやマスクのように染色体異常などによる外見の違いは扱っても、たんにブス/ぶさいくを主題にはしない。まして笑いものにしない。Gräns/BORDER(2018)にしてもSFの体裁をもっていた。デリケートな問題だからだ。あたりまえなのである。

ひるがえって、このような映画やドラマが教えるのは、わたしたちの外見が生きることのできる限定的な世界である。君の見た目にはこの生き方しかありません──とごていねいにカテゴライズしてくれている──わけである。

社会派でも教育者でもないので、是非はまかせるが、これらのドラマパターンによって日本人には先入観が形成されている。
たとえば、きれいな人がいじわるで、ぶすな人は心がきれい──といった先入観である。

先入観とは。ガンバレルーヤのよしこや富田望生が善人であると判断できるのなら、それはなぜですか?
本作においても、はなから説明なしに、よしこは、こころの清らかな女性として登場する。日本人はそれに疑問を感じない。なぜですか?

また、人からいじわるにされてばかりいると、じぶんもいじわるになる──という謎理論が、しばしばブスと併せて語られる。差別感情と被差別感情は、抱き合わせである。いじわるになりましたか?

顔と内面は関係がない。が、王道パターン──メディアが人を類型/典型へとすり込むことによって、ひとは他人を枠にはめ込む。また、じぶんという枠もつくる。
枠とは、クリエイティビティの枷のことでもある。
日本映画が類型的なキャラクターしかつくれないことはわたしたちの日常からも簡単に読める。

ところで、もちろん映画は軽いコメディで、そんなごたいそうな話じゃない。ブスをあつかう方法論もブスという語がなんども出てくる台詞もいやだが、よしこの顔はじっさい漫画のようにすごく決まる。ただし、その顔に依存しすぎ。よしこがニマッとするだけが見せどころで、あとは予定調和と帳尻あわせの紋切りドラマだった。

日本にはブス属性をもった役で使われる女優枠があり、ここにも山田真歩、有村藍里、安藤玉恵が出てくる。個人的に安藤玉恵には好ましさしか感じない。が、日本の定型ドラマには、いうなれば人の多様性をそれは変ですよと規制してくる下世話さがある。と思った。

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津次郎