劇場公開日 2018年3月24日

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「見事な娯楽作」ミッドナイト・ランナー 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)

5.0見事な娯楽作

2020年9月27日
PCから投稿

コミカルな雰囲気ではじまりますが、事件へ入りこんでいくほどに、シビアな景色が見えてきます。
韓国映画の真骨頂だと思いました。

アクションや犯罪者、少女たちの痛ましさはナホンジンのようにシリアス、コメディとノワールで緩急しながら、熱い高揚が込み上げてくる、みごとな娯楽作品でした。

ところで、すぐれた韓国映画を見ると「なんで韓国映画はこんなに面白いのだろうか。それにひきかえわが国の映画はなんであんなにつまんないんだろうか」と、(いつもながら)意味もなく比較して思ってしまいます。

なんていうか、人のみっともなさをばかにしない。
この映画では、警察学校の新米の、熱意あふれる、だけど青くさい人物像を、活写しているわけですが、その未成熟を嘲弄しません。

うまく言いあらわせない、かもしれませんが──、
たとえば日本映画/ドラマであれば、こういったダサい青年像を、まさしくダサく、あるあるの空気感と身につまされるような皮肉を込めて、描くのであって、そのスタンスが、まるで異なる──気がします。

なぜ、日本映画/ドラマが、人のみっともなさを笑いものにするのか──。

個人的な見解ですが、日本映画/ドラマが、所謂あるある的なことや、人物像を通じて「おまえのことだ」風の描写を欠かさないのは、作品そのものへの批判を回避するためだと思います。

つまり、映画/ドラマに、まさにわたし/あなたのような人物がいるのなら、人は見透かされている気分になってしまい、おいそれと、その映画/ドラマを批判できなくなる──わけです。構造わかります──でしょうか。

たとえば、女性を口説こうとしていて、大きいアドバンテージを得ることができる得意点か特典を、披露したとします。
ところが、その女性から「よくいますよ、そういうひと」と、まったく意に介されず牽制されてしまったら、消沈してしまう──はずです。

それは、うまいたとえ──とは言えませんが、日本映画/ドラマも、辛辣な批評を回避するために、よくいるひとを描くのです。よくいるひとが描かれてしまうと、またそのキャラクターにじぶんが合致してしまうと、作品そのものを批判する意欲が削がれてしまう──のです。これは効果的な牽制です。

しかし、知ってのとおり、人のあるある/ありがちな行動/言動をとらえて、それを指摘することは、だれにでもできることです。やらないだけで。

だれにでもできることをやっているのに、それが効果的な牽制となっているので、しょぼい作品でも孤高のポジショニングができる──というわけです。

ところで日本映画が、つねにそんな「あるある」や暴力などの威圧で、批評を牽制をするのは、基本的に「ばかな人が見る」と考えているから──ではないでしょうか。ほかの理由が思いつかないのです。

しばしばひどい映画を見て「ばかにするな」ということばが使われますが、まったく妥当な応答語だということが、わかります。

が、つくっているひとがばかなばあい、これは馬の耳に念仏/蛙の面に水/石に灸です。
きょうび「りこうぶるな」のほうが、妥当な応答語となり得る可能性が高い、かと思います。

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津次郎