劇場公開日 2017年6月3日

「映像がなくても成立している演劇的作品、もはやラジオドラマ(笑)」海辺のリア Naguyさんの映画レビュー(感想・評価)

2.0映像がなくても成立している演劇的作品、もはやラジオドラマ(笑)

2017年6月17日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

単純

寝られる

あまり言いたくはないが、これは"映画ではない"。自己解釈をした"演劇作品"であり、それを収録した映像(ビデオ)作品といえばいいか。

ヒッチコック監督は、"セリフに頼らず、映像だけで表現するのが、映画ならでは表現方法"と、事あるごとに発言していた。"音"を消しても"映像"だけでストーリーがわかるのが、ヒッチコック的な映画術だとするなら、この「海辺のリア」は"映像"を消しても、"音"だけでストーリーがわかる。セリフが各人の置かれた状況を語り、もはやラジオドラマに近い(笑)。目を閉じても大丈夫なので、そのまま寝てしまったり・・・。

こういう作品を観ると、小林監督は"言葉"で生きている人であり、"映画"はメッセージのための道具であって、"映画"を愛してはいない人だなぁと。

ストーリーは、シェイクスピアの「リア王」の陳腐な翻案である。リア王を、"かつて俳優として大スターだった老人・兆吉"に置き換え、冷たい仕打ちをしたにも関わらず、リア王を助けようとした末娘のコーディリアを、"愛人の子供・伸子"に重ねる。兆吉は認知症であり、長女とその夫に裏切られ、高級老人ホームに入所させられている。私生児を産んだことで勘当され、疎遠になっていた伸子と、老人ホームを脱走した兆吉が海辺で出会う。

壮大なシェイクスピア悲劇を、なんでこんな下世話な社会問題の喩えに使うのだろう。しかも人物設定の置き換えにしかすぎず、コーディリアが死んでしまうような真の"悲劇"になってもいない。

主演の仲代達矢をはじめ、黒木華、原田美枝子、阿部寛と、ぜいたくなキャスティングは何のためだろう。こういう無駄遣いはやめてほしいものだ。"演劇"であることが意図されているため、カメラのフレーミングはほとんど固定で、舞台を客席から見るような額縁になっている。"映画ではない"ので、評価もできない。

(2017/6/16 /テアトル新宿 /シネスコ)

Naguy