劇場公開日 2017年12月15日

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「善をとるか悪へ落ちるか」スター・ウォーズ 最後のジェダイ 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)

3.5善をとるか悪へ落ちるか

2020年7月11日
PCから投稿

ひょっとしたら天才かもしれない特徴というものがあります。頭の回転が速いとか、学校時代のスーパースターとか、耳朶が長いとか、左利きとか、薬指が人差し指より短いとか、面長であるとか、そんな旧友がいたものですし、自分に見いだして、束の間、いい気分になったりもします。
ですが、かつてのヒーローやヒロインも普通に年をとり、自分も今や「ぢっと手を見る」とか「なきぬれて蟹とたはむる」の啄木的心境です。

多くの同時代人にとって「自分にも特別な才能があるかもしれない」の原体験が、逆さに吊られたルークスカイウォーカーが、落ちているライトセーバーを念によってつかみ、窮地を脱するシーンだと思います。
が、1976年の日本ではフォースもジェダイも、世界じゅうが熱狂することになる壮大な物語も認知されていませんでした。

スターウォーズの人気は、自分にもあるかもしれない特殊能力に期待すること──への共感だと思います。むろん、妄想ですが、そこに原点があるような気がします。すなわち、すぐれたジュブナイルの側面を持っています。
ハンガーゲームもダイバージェントも、強大な敵とたたかう力を秘めた普通人の話が、いつの時代も人気を博します。
それは、若年層に向けて、劣等感を克服し向日性をやしなう効果をもたらすはずです。案外スターウォーズを見せたほうが三者面談より効果的かもしれません。

ただ、最後のジェダイでは今までになくヒロインやヒーローの内的葛藤が描かれています。帝国の野望とたたかうのか、ダークサイドへおちてしまうのかが表裏一体で、そのあやうい立地にいることにジュブナイルを超えた大人びたドラマ性があったような気がします。

善悪について紙一重と言うことがありますが、人はおうおうにして、善も悪もあわせて宿しています。その心のなかの戦いにおいて、良心にめざめ悪に打ち勝って、スターウォーズの物語が形成されていきます。
つまり覚醒とはフォースにめざめることであること以上に、善または悪を選びとることだと思うのです。

公開されていた2017年わたしは年老いた母を連れて映画館へ見に行きました。
帰りに母が感想を話しました。
感想とはいえアダムドライバーの胸板が厚いとか、フクロウみたいなのの置き時計がほしいとか、天童よしみがでてきたねとか、そんな話ばかりでしたが、レイだって悪い子になってしまうかもしれなかったと、ひとつ慧眼な感想を述べました。

私はレイが自分のなかにもダークサイドを見るのがあの映画のひとつのテーマだと思うと持論を展開し「親が善でも子が善になるとは限らない」と言いました。母は「おまえは何に目覚めたの?」と聞き返してきました。わたしは「俺を目覚めさせるのは尿意だけだ」と応えました。笑いをとるつもりだったのですが、コーヒー飲み過ぎとかノコギリヤシがどうのとか、スペースオペラの話から一気に現実に引き戻されてしまいました。

ごく最近になって、ローズ役ケリーマリートランのバッシングのことを知りました。個人的にスターウォーズに特別な思い入れはなく、映画にも思い当たるところはありません。母の天童よしみのたとえに「へえなるほど」と思ったていどです。
しかし、もともと、普通の人が、力を発揮するというドラマです。劣等感を克服し博愛を説くジュブナイルです。スターウォーズを愛する人が差別主義者なのは矛盾です。が、わたしとてレビューごときで博愛精神を説くつもりはありません。

ゆえに、この一件から解るのは思い入れほど鑑賞眼をブレさせるものはないということです。
が、しかし、私見としても、レイやカイロの描き方に、大人びた複雑な心象を感じていました。SWってもっと単純な話じゃなかったっけと思って見ていました。そこにローズはまったく絡みません。

つまり公平な客観評価を見たいと思って様々なサイトをあたっても、この映画が、ローズで落としているのか、それとも、ほかの欠損があったのかが、今もって解らないのです。

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津次郎