ベニーズ・ビデオのレビュー・感想・評価

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5.0メディアがもたらす、日常の暴力の拡大

2023年3月27日
iPhoneアプリから投稿

202302 555
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書籍『ミヒャエル・ハネケの映画術』より、一部

私は内容と完全に結びついた形式を見つけようと努めています。深刻なテーマを扱うやいなや、形式についての義務が生じ、それは説得的で真面目なものでなければなりません。学生たちには、初めての映画でホロコーストを扱うことはやめなさいと言います。なぜなら、資金的な問題以上に、適切な形式を見出すための成熟が必要だからです。彼らは自分の祖母についての映画を作る方がいいのです。私がよく言っているように、この主題を扱うことができたのは、『夜と霧』のアラン・レネだけです。もちろん、『ショア―』のクロード・ランズマンもです。しかし、それらはドキュメンタリー映画です。スピルバーグの『シンドラーのリスト』は壊滅的でした。

(「メディア」という概念について)私の全映画作品において努めているのは、自己言及的な次元をもたせることです。そこには、第二次世界大戦後のドイツ文学との類似性があります。ナチスがメディアを活用する技に長けている―プロパガンダにおいて、彼らはエイゼンシュタインよりも巧みでした―ことを証明して以来、知識人たちは文学や映画がいかに人心操作の道具となり得るかということを理解しました。その結果、私の直観では、ドイツの偉大な作家たちは自己言及的な文学を生み出すことになったのです。アドルノが浮き彫りにしたように、文学は自らの表現手段を反射し、鏡に映し出し、そうすることで読者に、読者の前にあるのは現実ではなく、芸術作品であることを了解する自由を与えたのです。当然、私の映画もこの風潮に属しています。私にはこれ以外のやり方はできません。脚本を書くとき、ある種の距離を作らねばならないと感じます。さもなければ居心地が悪くなるのです。現実のイリュージョンをまだ作り出すことのできた19世紀にはもはや私たちは戻れません。その頃には、例え批判を発しているときでさえ、文学はブルジョワジーの社会的地位を擁護することに努めていました。もはや、それは不可能です。今日、私たちは、内容と形式の両面において、対立し続けること、うまくいっていないすべてのことを告発し続けることを余儀なくされています。

(この物語を語ろうというアイデアについて)新聞を読んでいたら、殺人を犯した若者たちが、後で動機を尋ねられて、「どういう気分がするか試したかったんだよ!」と答えているだけのケースがいくつもあることに、たまたま気がついたのです。すごくショックだったので、この問題について考えはじめました。

テレビニュースは、大惨事や暴力や苦痛のことばかり報道しています。フィクションの映画作品は、それを誇張されたスペクタクルにしてしまい、現実の意味を失わせてしまいます。肉体的に暴力をふるわれた経験がなかったら、そして、もし自分が子どもだったら、スペクタクル化された暴力を現実だと思い込んでしまいます。他人を叩いてはいけないよと子どもに言ったとしても、子どもはそれを信じることができないでしょう。何しろ、絶えずテレビで見ているし、それを見るのは心地よいですからね。視線はこうして歪められていきます。

(少女の殺人シーンを映さずにピストルの発射音を聞かせるだけにした演出について)効果を高めるための手段です。良質なスリラーやホラー映画は全てこんなふうに作られています。観客に映像を押しつけるよりも、彼らの想像力を働かせる方が常によいのです。なぜなら、映像というのは常により凡庸だからです。時には、凡庸さが同じくらい効果的なときもありますが。大抵の俳優が説得的な仕方で死を演じることができない、という技術的な理由でもあります。

本当の恥とは、悪をなす人たちではなく、それを見ないように目を閉ざす人たちから生まれます。悪に手を染めるひとたちというのは、そんなに多くありません。しかも、いつか自分の行為が報いを受けると知っている点で、彼らは勇気ある人々であるとも言えます。大多数の人々は目を閉じることで、自分には罪がないと思いたがるのです。私も同じです。せいぜい、真正面からこの問題を扱っている芸術家として、一般的な無関心から少しは抜け出していると主張できる程度です。しかし、目を閉じるのは、やはり無力さからです。第三世界に対する私たちのシチュエーションを考えてみてください。私たちは全員罪がありますよ! しかし、どこに解決策があるというのか。だから、地震の被害者や他の大義のために、少しばかりのお金を渡し、罪は贖われたとするのです。

(映像作家として、強制収容所に関する歴史に触れねばならないと思うかという質問に対して)「ねばならない」かどうかはわかりません。しかし、それについて話したいという欲求を強く感じています。なぜなら、私たちの国ではその話題をカーペットの下に隠そうとする傾向があまりにも強いからです。そうした隠されたことを思い出させるのが芸術家の義務です。

旅先をエジプトとしたのは、(カットしてしまいましたが)日食に関するシーンがあったのです。そのシーンをエジプト人たちの太陽信仰を意識しながら撮影しました。彼らにとって、太陽が消滅してしまったときは、世界の終わりを意味していました。

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HAPICO