劇場公開日 2014年6月7日

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「世俗にただようカーストのカリカチュア」女子ーズ 津次郎さんの映画レビュー(感想・評価)

3.5世俗にただようカーストのカリカチュア

2020年7月11日
PCから投稿

演出には、創作とアドリブがある、と思われている。
勘違いだと思う。
作っていない演出はありえない。
しばしば鬼才づらのクリエイターが「ここはアドリブでいってみよう」と、振りかぶった──ようなものを、テレビや映画やCM等に見ることがある。
うまく行っているのを見たことがない。
本麒麟を飲ませて「まずい」って言うひとがいるんだろうか?

「なにかおもしろいものができるかもしれない」という無根拠な発想は、ていのいい仕事放棄であってアドリブじゃない。
そんな勘違いをしている人がクリエイターの中にもいる──ような気がする。

芸能界広しといえど、アドリブができるのは佐藤二朗だけである。──かどうかは知らないが、アドリブをやり付けている人だけがアドリブをやっておもしろい。

アドリブの特徴は、あきらかにとっさのAwkwardな発言が含まれること、感動詞(えっと/あの/いやいや)が多くなること、反復が出てしまうこと、オチがないこと──などで、その台詞が、作られたものかアドリブかは解りやすい。

佐藤二朗のばあい、むしろAwkward──言葉につまっている様子自体が既におもしろいのであって、それは俳優の演技力や修練で成すものではなく、ひたすら経験則から生み出されている──と思う。

また、アドリブの特徴には、短いシークエンスでやるから楽しい──もある。
佐藤二朗といえども、長いroleをアドリブで通すのは無理、というより、意味がない。
すなわち部分的ならアドリブが効果的なこともある──ということだろう。

おそらく監督は、しっかり作らなければいけないところと、アドリブでいっていいところを、知っている。
銀魂や50回目~にはその緩急の使い分けがあった。

女子ーズも、アドリブが繁く挿入され、とてもユルく見えるけれど、むしろとても作り込まれているはずだと思う。その成果がおもしろさにあらわれている。

しばしば映画評で、日本人にはぜったいにつくれない──という、日本下げ/海外上げの形容をつかうことがあるのだが、この映画は日本人にしか作れない。

うまく言えないが、自虐文化圏のなせるわざだと思う。が、それは日本国民が矜持するところではない。映画は、ほのかなレイシズムのほうが勝っている。なんとなく庶民をばかにしている。というか、基調として、美醜や優劣にたいする差別意識が、楽しさにつながって──しまっている。わが国ならではのカリカチュアだろう。きらいだけど、おもしろさのほうが勝っている。
個人的にはとても楽しんだ。

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津次郎