「天才の悲喜劇」アマデウス ディレクターズ・カット版 よしたださんの映画レビュー(感想・評価)

3.5天才の悲喜劇

2016年3月1日
PCから投稿
鑑賞方法:DVD/BD

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モーツァルトと同時代のウィーンの宮廷音楽家アントニオ・サリエリの目を通して、彼の短い生涯を描く。
この観察者・サリエリは、ベートーベンに教えたりもしたたたき上げのエリートなのだが、モーツァルトの登場によって自信を打ち砕かれ、彼の下品な言動を徹底して嫌うことになる。
映画に描かれるモーツァルト、つまり、サリエリの目で見たモーツァルトの下品な笑い方、他人への尊敬の欠如は不愉快極まりない人物像である。
しかし、なぜここまでモーツァルトという作曲家が無神経な人物として描かれなければならないのか。もちろん彼の意外な一面を観客に提示するとは、映画を魅力的にする要素の一つには違いない。だが、単にこれまでのモーツァルトのイメージを覆すような新しい人物像として描いただけでは、この作品の映画としての完成度はこれほど高くなく、もっと薄っぺらなものになっていたことだろう。

モーツァルトの厚顔無恥ぶり。それは、この人の無私によるものなのだ。映画はそのことを繰り返し示唆する。
皇帝や他の宮廷音楽家たちの目の前で、サリエリの書いた曲を即興で改訂し、サリエリ本人ですら感嘆するような素晴らしい曲にしてしまう。このときのモーツァルトにサリエリを侮辱する意思は全くない。むしろ、サリエリには作曲家としての才能が(自分ほどではないにせよ)あるということを認めているのだ。
でも、モーツァルトにはサリエリの尊厳に対する配慮は微塵も見られないのだ。皇帝ですら持っている他人の尊厳への配慮が彼には全くない。映画の肝は、なぜこのような人物像が成立するのかということである。

音というものは自然界に存在するものである。これは、モーツァルトや先達の作曲家が創造したものではない。「日の下に新しいものなどない。」という言葉のごとく、音楽を構成する音という要素は人間が作り出したものではない。作曲家はただその自然界に存在する音を紡ぎ合わせ、美という真理を見出した場合に美しい音楽として生み出すことができるだけだ。
音と音楽のそのような関係を知っているモーツァルトにとって誰が作曲したものでも、この自然の真理と作曲者の人格が一体をなすなどという発想とは無縁なのだ。
モーツァルトにとって、サリエリの作品を改変してしまうことなど、数式の間違いを正すことと変わらず、この訂正が人格や尊厳を傷つけるなどという憂慮には至らない。
そして、真理が誰にとっても真理であるという当たり前のことが、宮廷音楽家の端くれであるモーツァルトに大衆向けの音楽を書かせることにもなる。
真理としての音楽。この神の領域に自分が手をつけることができると勘違いをしたことにサリエリの悲劇があり。神の領域にから得た才能、つまり天才は、凡人には計り知れないものであることを知らなかったことが、モーツァルトの悲劇なのだ。
夫を残して温泉療養へと出かけてしまうモーツァルトの妻は、最後までこの天才を理解することはなかった。天才は孤独を強いられる。
終盤に、病床のモーツァルトが口述し、サリエリが譜面をおこす。モーツァルトが誰よりも自分の理解者であると信用したのは、皮肉なことに、誰よりも彼を恨むサリエリに他ならなかった。
孤独な天才は、少なくともサリエリという理解者を得て死んでいく。嫉妬の炎に焼かれたエリート音楽家が、偉大な天才を死に追いやり、そして天才の死に際してその孤独から救うという悲喜劇である。

佐分 利信