劇場公開日 2021年6月18日

「ジャッロ映画の頂点に君臨する最高傑作。「残酷の美学」と「ミステリー・マインド」の類まれなる融合!」サスペリア PART2 じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)

5.0ジャッロ映画の頂点に君臨する最高傑作。「残酷の美学」と「ミステリー・マインド」の類まれなる融合!

2021年6月27日
PCから投稿
鑑賞方法:映画館

僕がこの映画を初めて観たのは、小学6年生のときで、もちろんテレビの吹き替え放送だった。
祖母の膝のあいだで、恐怖で顔を隠しながら、すが目でこわごわ観ていたのを覚えている。
当時、関西では日曜の朝っぱらから『サスペリア』とかこれとか『リーインカーネーション』とか『ホワイト・バッファロー』とかやってる狂った映画放送枠があったのだ。
『サスペリア』&『サスペリアPART2』との出逢いで、僕の人生はまちがいなく変わった。

よく知られているとおり、『サスペリアPART2』は『サスペリア』の続編ではない。
それどころか、撮られたのは『サスペリア』より前である。当時の東宝東和が、『サスペリア』の大ヒットに乗じて、お蔵入りしていた旧作を「2」と冠して封切ったにすぎない。
原題は『Profondo Rosso』。英語題なら『Deep Red』。
ここ最近、『紅い深淵 プロフォンド・ロッソ』の邦題でパッケージ化されるようになったのは、実に喜ばしいことだ。

子どもの頃の刷り込みが多分にあるから、おそらく僕はこの映画をフェアにジャッジできない。
とにかく、すべてが好きだ。なにもかもが。あらゆるシーンが。
ダメなところも、冗長なところも、作りの不味いところも、みんなひっくるめて。

20年前に新婚旅行でイタリアに行ったときも、夜はダリオ・アルジェントの店『プロフォンド・ロッソ』に足を運んだ。店番にはルイジ・コッズィがいて、ひとしきり談笑した。気さくでいい人だった。
ルイジはアルジェントの弟子筋にあたる映画監督だが、まさに『プロフォンド・ロッソ』の研究本も執筆している。

『サスペリアPART2』の何がここまで僕を魅了したかというと、おそらくなら小学生の僕はこの映画を、当時熱狂的に支持していた横溝正史の金田一耕助シリーズ(石坂浩二版、古谷一行版)や、江戸川乱歩の明智小五郎シリーズ(天地茂版)、それから必殺シリーズあたりの延長でとらえたのだと思う。
すなわち、僕はこの映画をホラーとして観ず、「ホラーテイストのミステリーの極北」「今まで観たことがないほど怖いフーダニット」として観たのだ。
のちに成人して僕は、イタリアには「ジャッロ」と呼ばれるシリアルキラーを扱ったフーダニット性の強い残酷ミステリー映画の系譜があって、まさに本作がその代表作なのだということを知る。

あまり強調されないことだが、ダリオ・アルジェントという監督の最大の個性は、際立った「本格ミステリー・テイスト」にこそあると思う。
闇と光と三原色に彩られた映像美や、クセの強い殺人者目線の一人称カメラ、残酷で様式的な殺人シーン、くそかっこいいゴブリンの音楽といった諸要素(まさにすべてが『必殺』の殺しの美学とも通底する!)も、もちろんアルジェントの大きな魅力ではあるのだが、それらは結局のところ、彼の師匠にあたるマリオ・バーヴァや、私淑するヒッチコックから受けた影響を純化させ、さらに煮詰めたものにすぎない。
一方で、彼の本格ミステリー的要素に対する異常な執着は、明らかに彼独自の個性だ。

彼の作品は、「意外な犯人」の衝撃に向けて、ひた走る。その意外性のためならば、矛盾も破綻も意に介しない。特に『歓びの毒牙』から『スリープレス』へと続く、彼のジャッロ映画それぞれの犯人像を考えるとき、あらゆる典型的な「意外な犯人」像の類型がそろい踏みしていることには驚かされる。
それから、彼は必ず「映像でしか実現できない大トリック」を仕掛けてくる。すなわち、小説では不可能で、映画でしか説得力をもたないトリック、いわゆる「映像の叙述トリック」とでもいうべきものだ。
このふたつの要素が最高の形で結実した世紀の傑作。
それが、本作『紅い深淵 プロフォンド・ロッソ』である。

まずは、冒頭に仕掛けられた、「空前絶後の大映像トリック」。
プロフォンド・ロッソといえばこれ、といってもいいくらい巷間に流布した伝説のシーンだ。
いまこれを上映しているシネマートでは、まさにくだんのシーンを再現するセットが館内に組まれていて、劇場スタッフの「理解度」に思わず頬がほころぶ。しかも、4Kレストア版のトップコピーは、かつての「約束です!決して、ひとりでは見ないで下さい」ではなく、「あの夜重要な物を見たんだ。それが何か思い出せない――」……ああ、なんてすばらしい! なんてわかってらっしゃる!!

「主人公を含めた観客全員が、犯人をはっきりと目撃しているのに、なぜか誰も気づかない」という大ネタ。タネを明かせば、それこそバカみたいなトリックなのだが、アルジェントは主人公を通じて一貫して「現場で感じた違和感」を強調しまくることで、このネタをストーリーを引っ張る「謎」の核心として機能させることに成功している。

本作で用いられている「映像トリック」は、何もこのシーンだけではない。
タイトル・クレジット直前に挿入される、きわめて巧妙な「かたり」のテクニック。
こちらも同じくらい重要だ。
「多義性のあるシーンを観た主人公(観客)が根本的な勘違いをしでかして、事件の本質を見誤る」という仕掛けである。
なにせ、彼は「同じ」趣向の映像トリックを、第一作『歓びの毒牙』(69)でも採用しているし、『トラウマ』(92)で出てくるあの珍無類の映像トリックだって、狙い自体は近しいものがある。すなわち、これはアルジェントがやりたい映像トリックの「キモ」とでもいうべきものなのだ。

本作では、まず冒頭(クレジットのさなか)で観客に「シーンの一部」を示し、同じ内容を「壁画」という形で主人公にも提供する。さらには、主人公が立ち去ったあと壁土がゴソッと剥がれ落ちて「絵の続き」が見えるあの衝撃のシーン(ここ、もう大好き!)によって「真相の一端」が観客に知らしめられる。この「真相の一端」は、図書館で発見されるオリジナルの絵を通じて、「左半分が切れたくらいの不完全な状態」で主人公にも共有される。
こうして、小出しに視覚的情報を提示しながら、アルジェントは主人公と僕たちの「認識」を自在に操ってみせるのだ。

真犯人像の隠蔽という意味でいえば、幽霊屋敷での襲撃者が「誰」なのかというのも、見逃せないポイントだと思う。明らかにあそこからいろいろとやり口や手加減の仕方に「変化」があって、語られない事件の裏側で何が起こっていたのか、いろいろ想像してみると楽しい。
(あまり書くとネタバレになるので細かくは触れないが、ジャンナというダリア・ニコロディ扮する女性記者にも、とくにすれっからしの観客を「ひっかけて」「油断させる」ための究極の「レッド・へリング」としての機能が巧みにもたせてあって、そのへんの印象操作は本当によくできている)

「意外な犯人」と「映像でしかできないトリック」に加えて、本作には本格ミステリーでお馴染みの「いかにもの趣向」がてんこ盛りに投入されている。
これらの要素もまた、僕を身震いするほど、熱狂させる。
「童謡殺人」、「ダイイング・メッセージ」、「殺す人形」、「怖い児童画」、「封印された秘密の部屋」……。なんて、濃ゆい! このかゆいところに手の届く怪奇ミステリー定番のオンパレード・ショー!

とくに、わらべ歌が、人形のビジュアルとひっくるめて、ホントに怖いんすよ!
当時、テレビで観る『八つ墓村』や『犬神家の一族』程度のホラー要素でも十分震えあがっていた子供が、これを観てどれだけ怖かったことか。
いや、それから数百本のホラー映画を見まくって初老を迎えてもなお、僕はじゅうぶんに『プロフォンド・ロッソ』が怖い。

殺人鬼が犯行の前に、テーブルに呪物と凶器の数々を並べて、それを取捨選択する様子を、ゴブリンの音楽に合わせて、這いずるような粘っこい一人称カメラで追ってゆくシーケンスも、とにかく最高だ(やはり『必殺』における殺し屋たちの「殺しの前準備」を想起させるんだよなあ)。
ちなみにこれは、『インフェルノ』(80)において、よりパワーアップした形で帰ってくることになる(笑)。

『プロフォンド・ロッソ』のホラーとしての完成度に関していえば、「様式美」と「趣向」と「けれん」と「直接的な暴力性」が、あり得ない高みで融合しているといえる。
まず、何かが起きそうな気配。殺人鬼の影。狩られるものの怯え。それらが観客の神経を否応なく摩耗させる。犯人による薄気味悪い名前の呼びかけ。このシリアル・キラーには、標的への明確な悪意があるのだ。それから、得体の知れない呪物が投入される。吊るされる人形、流される童謡。なぜ犯人がそんなことをするのかに論理的な必然性はない。アルジェントがやりたいから、やるのだ。
なめまわすような犯人視点の一人称カメラ。緊張の頂点でいきなり解き放たれる、トゥーマッチではあっても様式美に則った暴力の発露。とくに人を刺すナイフの手は、つねにアルジェント本人がこだわりをもってやっていたらしい。そこに、各殺人シーンにおける独特の趣向(ガラス叩きつけ、五右衛門風呂、自走人形etc.)が加わって、いずれのシーンも忘れがたい強烈な印象を残す。
殺人シーンのインパクトとしては、『サスペリア』における最初の殺人シーケンスがなんといってもアルジェントの最高峰だと称されるべきだろうが、粒ぞろいという意味では、本作も負けていない。それになんといっても、あのラストシーン!!!

この「デコラティヴ」で「様式的」で儀式めいた殺人の「アート化」は、それをつなぐ日常シーンにも同じスタイルがおよぶことで正当化される。
デ・キリコめいた無人の広場でのシンメトリカルなマークとカルロのやりとり(舞台はローマだが実際のロケ地はトリノ。噴水はなんの神様の大理石像かと思うが、実はポー川の化身である)。
エドワード・ホッパーの絵画を再現することを試みた、カフェ・バーの活人画(ヴィヴァン・タブロー)。
得体の知れない絵画で埋め尽くされたフラット。奇怪なオブジェと古書でいっぱいの書斎。
アルジェントの日常には、常に非日常が紛れ込み、「様式化」が画面を引き締めている。
そこには、いまだ太古の残虐な神々が現代の都市空間に牙を隠す、イタリアという国の禍々しさが刻印されているかのようだ(なお、この映画は一見してわかるくらい、アントニオーニ監督の『欲望』(66)から諸々の影響を受けており、デヴィッド・ヘミングスの起用もそのつながりではないかと思われる。本作の不条理感の淵源として記憶しておきたい)。

「夜」の怖さを常に追求していた『サスペリア』(あの映画で昼のシーンはある種の憩いである)と違って、『プロフォンド・ロッソ』の惨劇は、おおむね「黄昏時」に起きる。光をともさないと暗いが、なんとか視認できるくらいの仄暗さのなかに、残酷な神の使いは潜む。その意味で、二人目の犠牲者である民俗学者が、いったん悪の気配を感じて家から外に出るのだが、目の前でバスが走り去ってしまうという黄昏時のなんでもないシーンが、僕は大好きだ。
その他、蜥蜴をはやにえしちゃう恐ろしく悪そうな顔の少女も、串刺しにされちゃう黒ツグミ(どうみても九官鳥)も、なかで出てくるものはみんな好きだし、警部や新聞記者との愚にもつかないドタバタも、土ワイや火サスで観てきた推理劇と同じ香りがしてけっして嫌いじゃない。日本盤ではカットされてた冒頭のゆるい演奏シーンや新聞記者とのダサい腕相撲シーンだって、こうなったら気にしない。館の探検シーンの恐るべき冗長さと、夜に再挑戦する際のとってつけたみたいな壁登りアクションだけはさすがに許していいものかと常々思ってきたが、今回、大画面のレストア版で久しぶりに再見して、「大画面なら全然退屈しないし、それどころかデヴィッド・ヘミングスと一緒に廃墟を探検してるみたいで超楽しい!」ということに気づいてしまった。

まあ、いろいろ不出来なところもあるかもしれないけど、これだけハマる人間もいる(たぶん僕以外にもたくさん)。そういう途轍もない魅力をもった映画であることは間違いない。

別に「ひとり」でも一向に構わないので(笑)、ぜひ未見の方にはご覧いただきたい。

じゃい