シン・エヴァンゲリオン劇場版のレビュー・感想・評価
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焦らずまくわよ
当時、映画館で観ました🎬
冒頭のパリ復元作戦に始まり、ラストのシンジとゲンドウの親子対決まで、本当に目が離せない展開でした🙂
シンジは全てのエヴァンゲリオンとチルドレン達を解放し、自分はそのまま消えていくかと思いきや…やはりそこはマリが助けましたね。
髪の長いレイさんも素敵でした😀
まさかシンジがエヴァに乗らなくていいように、ずっと初号機に留まっていたとは…❗❗
主に中盤でのシンジが立ち直るまでの過程も割りと丁寧に描かれていて、トウジ・ケンスケ・ヒカリや村の皆との交流。
シンジの「何で皆こんな優しいんだよ❗」という台詞や、黒レイさんとの悲しい別れ…。
終盤ではミサトさんともちゃんと和解し、しっかり漢の顔になり親子対決に向かうシンジ。
そしてミサトさんは、シンジに槍を届けるために…。
途中途中のエピソードも、私はどれも好きですね🙂
加持リョウジ2世に向けた、ミサトさんの最期の言葉は…涙腺が。
ゲンドウの計画通りになりかけてた時は焦りましたが、アスカもきちんと救出出来ましたし😁
相変わらず、ラスト近くでは急に加持さんが「渚司令」とか言ってたりして、難解な部分もありますが、それがエヴァなのでね。
私は中学生の時、友達からTV版のビデオを勧められて、それから観てからすっかりファンなのですが😀
まさか、大人になって劇場版の完結編にしてほぼ大団円で終わるストーリーを観られるとは…思ってもみませんでした。
制作チームの方々には、感謝ですね。
私はこれからも、いちエヴァファンで有り続けます😁
ちなみに私が1番好きなキャラクターは、レイさんですね🙂
皆さんご存知の通り、その後は彼女を模した設定のキャラクターが多数生み出されています。
一例を出すと、私が今でもやっているゲームシリーズ「真・三國無双」の星彩も、彼女を意識していると言えます。
後世の作品に、多大な影響を与えた存在と言えるでしょう🙂
そんな訳で、私はエヴァが今でも大好きですね👍
制作チームの方々、お疲れ様でした❗
呪縛からの解放
こうして皆さんと共に生きてエヴァンゲリオンの
終わりを見届ける事が出来て幸運です。
私の語彙力では上手く表現出来ませんが、
レビューを綴りたいと思います。
今回のシン・エヴァンゲリオンは完璧なる
庵野監督によるエヴァンゲリオンの呪縛から解放。
個人的にあの否定寄りの賛否両論だったQの
登場人物の不満点を全て解消してくれた事だけでも
高評価でした。
みんなシンジ君に対して感謝もあり憎しみもあった。誰しもが割り切れなかった。
冒頭から安否不明だった登場人物と
赤く染まった大地から離れた自然豊かな自然と
人の営みを見せてくるのが流石は庵野監督だと感じました。
アヤナミレイ(仮)の人々との触れ合いにホッコリ。
前作感情移入出来なかったヴィレのクルーや
空中戦艦ヴンダーも本作でようやく愛着湧きました。
庵野監督がやりたかった艦隊戦も楽しめました。
全編に渡る戦闘演出やカメラワーク、
相変わらず頭の整理が追いつかない儀式演出も
庵野監督ならでは。
終盤、シンジ君とミサトさんの最後の会話は泣いてしまいました...
シンジ君が毅然と主人公として覚醒し、
旧劇場版へのケジメとしてレイとアスカを救い、
果てにはカヲル君すらも救済した事に感動。
あらゆる過去への決着を付けて最後は新キャラであるマリと共に駆け出したのも過去との決別なんですね。
暫くはエヴァファンお馴染みの考察があるかと思います。
でもこの先は無いとなるとやはり寂しいです。
最後まで声優が変わらず、エヴァンゲリオンの終焉を見届けられて本作に感謝です。
本当にありがとうございました。
綾波レイ推し
映画館でもたしか3回視聴、今回多分6回目の視聴。
何度見てもすごい面白い。
綾波推しからすると厳密には綾波ではないがいろんな言葉を覚えていくシーンや表情が少し豊かになっていくのはめちゃくちゃ良かった。
シンジとゲンドウの戦闘のシーンの対を表しているシーンがめっちゃ好き。
終わり方もすごい良かった。
ついにエヴァが完結してしまった
「庵野監督がちゃんとエヴァを完結させた」
それだけで大満足でした。
今回もよく分からない終わり方をして、賛否両論になるんだろうなと思っていたので…笑
綾波派なので、序盤で幸せそうな黒波が見れて嬉しかったです…癒やされた。
そして、今回はゲンドウにフォーカスを当てたところが本当に良かった。最後の結末も含めて、これで本当にエヴァは終わったんだなと思えました。
見終わった後、しばらく余韻に浸ってしまいました。ちゃんと完結させてくれてありがとう。
ヱヴァと少年の懊悩の終わり、そして大団円
ヱヴァ13号機がもたらした結末に打ちひしがれた碇シンジは、
生存者の集う第三村での懊悩の日々と別れを経て、遂に父ゲンドウとの対峙を決意する。
セカンドインパクト爆心地、旧南極。己の願いのため邁進するゲンドウのもとへと迫るヴィレ一同。
その果てに待つのは……幾たびも繰り返された”少年の神話”、その本当の結末。
Qで(当時感覚としては)突如としてシンジに突き付けられた「ヱヴァに乗ったことの罪」。
視聴者の困惑も大きかったが、今となればこれが何を意味していたのかも分かるような気がする。
「ヱヴァという力を与えられながら世界を救えないシンジへの苛立ち」、
「ヱヴァに乗る限り世界の全てに痛めつけられるシンジへの嘆き」。
シンジが本作でヱヴァに乗ると告げた時に向けられた二つの銃口が示していたものは、
”新世紀ヱヴァンゲリヲン”という作品を追ってきた視聴者が
かつてシリーズに、庵野監督にぶつけてきた想いそのものではなかったか。
このシーン以後本作はメタ的性格を強めていき、
”ヱヴァンゲリヲン”という単語が示すものはシリーズそのものと重なり合っていく。
そしてその大胆な展開は成功した。この方法以上はなかったと言ってもいい。
巨人の姿で暴力を振るうことを終え、父親の弱さと想いを受け止めた。
根幹においてすれ違っていることを認め、アスカと遂に和解した。
互いが託していた想いを確かめ、カヲルと訣別を果たした。
「ヱヴァ」の不可分なパーツであることから、レイを解放した。
”新世紀ヱヴァンゲリヲン”の主人公として背負わされた業に、
遂にシンジは完全に決着を果たした。
そして、相補性に満たされた世界を幾度も願いながらも「ヱヴァ」に閉じ込められ続けた少年は、
その外からの来訪者と手を取り合って舞台を降りた。
シリーズへの不満など最早残させない、堂々たる大団円である。
よい。全てはこれでよい。
まごころの苦しみやQに残したトラウマと決別した作品でした。
まごころを君にを見た時のトラウマと救いのない結末に心の傷を持ちながらQまで見た世代です。
Qを見終え、シンエヴァの公開の時、自分は楽しみというよりまごころを君に登場しまシンジ君と同じ鬱な感情になっていました。
世界が滅び、生き延びた仲間からも冷たい目線や態度、心の拠り所のカオル君もいなくなり、仮に勝てたとしてもこんな世界じゃ何も何も戻ったりも得たりもしない。
だからみんな死んでしえばいいという感情がでて今度こそ、まごころと同じめちゃくちゃになってしまえばいいと思っていました。
そうした感情の中、映画を見にいきました。
見終えた時、そうした感情や苦しみから解放されました。
第三村で小さくても強く生きてる人たち、旧エヴァでそばにいてくれなかった友達やアスカやレイの支え、ミサトさんと大人になれたシンジとの会話を見ているうちにみんないなくなれからみんな好きだからいて欲しいという気持ちになりました。後、アスカの裸体を見てもシンジは反応しなかったり、赤木博士の絶望のリセットから希望のコンティニューを選ぶ宣言など、まごころのオマージュもありながらも完全に違うという意思を感じました。
巨大レイが現れた時もトラウマから決着をつける時が来たと完全に向き合えるようになりました。
その後、エヴァ作品の心残りであった父との本当の和解やエヴァのパイロットの卒業を進めてくれてありがとうと思いました。
ゲンドウと直接和解でき、レイやカオルも一人の人として生きていこうと前に押してくれた事、そしてアスカと浜辺のシーンの時、止まっていた時間が動いてくれたと感じました。
二人とも想いを伝え、そして心の拠り所に帰ってくれた事。
青い地球で巨大レイやインフィニティが崩れた時、そこから人が出てきて戻ってくれた時、やっと、やっと呪いやトラウマから決別できたと泣きました。
ありがとう全てのエヴァンゲリオン。そしてさようなら全てのエヴァンゲリオン
映像美伴う重層的な物語の魅力と、庵野秀明の作家性とエンタテインメントの共存
ラストシーン、シンジとマリが手を取り合って宇部新川駅の階段を駆け上がると共に主題歌One last kissのイントロが始まり、宇多田ヒカリの歌声と宇部新川駅の実写、そして駅の俯瞰、宇部市全景が重なっていく映像は、意外性も有り、映像と音楽の美しい調和からか、涙が出るほど感動させられた。続いてクレジット時で流れたbeatiful worldも目新しい美しいアレンジで、長かった本シリーズ全体が見事に終わったことを告げ、感傷をもたらした。
TVシリーズの様に、完結回のはずの今回も謎解き無くして終わってしまうのではと危惧していたが、そうでなく、ほぼきっちりと説明を完了させていたことには感心。えてして謎解きの回はつまらなくなるものであるが、一つの映画として、しっかりと見せ場を作っていたことはお見事。
特に、シンジの心の癒し・再生プロセス、綾波そっくりさん、アスカ、トウジにケンスケ等に助けられながら回復していく様は、時間経過示す静止画利用やショッキングなそっくりさんの死も有り印象に残った。
アスカの使徒化はアイマスクから予想されたと言え映像的には迫力有り、何よりシンジがレイやアスカではなくマリとパートナーになるのは驚かされた。冬月はマリをイスカリオテのマリアと呼んでいた。学生時代らしい写真も挿入されていた。冬月、シンジの父母ゲンドウ・ユイと一緒に写っていたのがマリで、ゲンドウ達から見たら裏切り者で、マリアと言うからにはシンジの守護神、母そして妻的な存在か?
後半、アスカ、カオル、レイの魂の救済がシンジによりなされる。シンジは言わばこの物語では救世主的な存在らしい。マリと結ばれるのも予定調和、必然ということか。
何故、エヴァンゲリオンは自分をこんなに夢中にさせたのか?まず、ビル群や戦艦の大砲等メカニック人工的なものを斬新に美しく切り取った画像がある。今回も真っ赤な廃橋の映像、多分シンジの心象風景でもあるが、に魅せられてしまった。そして、ミサト、レイ、アスカ、マリとタイプの異なる魅力的なヒロインキャラクターの存在がある。彼女らは昔好きになった何人かのヒト達を思い出させる。
加えて、幾つかの謎解きの面白さ、今回も改めて古い歌を口ずさむマリが何者かが、暗示されるかたちで示されていた。冬月が爆死も含めてなお自分的には謎残ってるが。更に、重層的な構造、即ちウルトラマン及びガンダム的活劇、青春恋愛ドラマ、救世主により世界が救われる神話的物語、無気力だった少年が責任を自覚し大人になっていくドラマ、独りぼっちの少女が自分の居場所を見つけるドラマ、そしてミュージカル的要素。それらをトータルで捉えた同時代的感性がたまらなく好きであった。
今回、ラストは庵野秀明の生まれ故郷の宇部市で終わる。最初の原画も提示され、この物語が庵野の超個人的な、言わば私小説なものであることが暗示される。孤独を感じさせるシンジ、ゲンドウ、カオルは庵野の分身か。そして、女性達は好意を寄せた人達、マリは現在の奥様か。クレジットで分かるあれだけの大集団の製作によるエンタテインメントで有りながら、同時に作家性が満点のエヴァンゲリオン映画、長い間本当に楽しませていただいた。感謝するとともに、どうしても新しい映画の創造に大いに期待してしまう。
バッドエンドは嫌だったしハッピーエンドは安っぽかっただろうし最善解としての「オープンエンド」
1995年から2021年へ。
「みんな消えちゃえ!」から、「うん、行こう。」まで。
オープンエンドクエスチョンは、あなたならどう考える? という問いの形式を指す言葉だ。
これに対して、イエスかノーかの質問はクローズエンドクエスションという。
「めでたしめでたしハッピー!」と言われるよりも、
「げちょグロスプラッタああ可哀想でしたねはい終わり」と言われるよりも、
「彼らはアニメさえ抜け出て、ここから走り出した。さあ、あなたはどう思う?」と言われた方が、
26年の付き合いの作品の締めくくりとしては、相応しかった。
最高の終わり方だったと思っている。
1995年は、廃墟と、精神世界と、メカニックと、近未来と、散りばめられた憧れをくすぐる贅沢品と、カッコイイセリフが、「エヴァンゲリオン」だった。
普通のアニメなら事件や事故やミッションや冒険がテーマであり、
財宝を手に入れるためにどうするか、というのが会話の中心になる。
だがしかし、エヴァは違う。
人格未形成、情緒不安定な人物に、精神的な葛藤を、
ここまで登場人物に喋らせたアニメ作品が、あっただろうか。
そのどうしようもない鬱々とした承認欲求は、
人類を救うという一大ミッションよりも前面に押し出され、ぐいぐいと迫ってくる。
ミッション以前の前提問題として生存権がぐらついているのだ。
「僕を見て!僕を殺さないで!」
「あたしを見て!あたしを殺さないで!」
しみじみ、シンジもアスカもレイも、みんなかわいそうである。
奴隷制度や残虐な牢獄脱出の物語ではないのに、
生存と存在の承認欲求を叫ばなければやってられない状況に陥っている登場人物が、
かつて、いただろうか。
だが、それが見事に刺さった。現代社会の暗い影を、浮き彫りにするかのように。
SNS全盛期のずっと前に、承認欲求を、斬新なデザインと、盛り上がる音楽で吐露するのが、
格好良かった。新しかった。
人間はどす黒いことを思うものなのだ。
孤独や息苦しさを形にしてもいいんだ。
高度な専門家たちの頭脳ゲーム。
物憂げで悟りつつも、生に苦悶する子供たち。
いつ使徒に襲われて崩壊するか分からないのに、惰性で続けられる学校ごっこ、家族ごっこ、仮初めの日常生活。
斜に構えた物憂げなフランス映画に、原色で彩られた現代アートを混ぜたような作品。
一つの画期的な作品が突破したボーダーラインの先には、後続が続いていく。
セカイ系、病んだ精神の吐露系の、その元祖のようなエヴァンゲリオン。
その本家が、終劇を迎える。
スターウォーズやガンダムは歴史書が書けるほど分厚いが、同様に、
エヴァンゲリオンはオマージュとメタファーと緻密な設計図のミルフィーユが分厚い。
分厚い作品は、類似品のような薄っぺらさにはならない。
薄っぺらくない根拠は、私のような視聴者が、その分厚い橋の上に立って、そこからの眺めをこうして語りたくなっているから。
良い作品とは、それが橋や船や氷山にまで膨れ上がり、無数の人々をその上に乗せ、そこからの眺めを人々に語らせてしまうものだと、定義できると思っている。
その終劇。
その終劇は、昭和ノスタルジー村で、古い家具に囲まれて、田植えをして、粗食をして、風呂に入り、赤ん坊を可愛がり、お母さんが息子に謝るのである。
・・・どう解釈したらいいのだろう?
正直、二通りの感想を持った。
一つ目は、作者の加齢による穏健化。老後ノスタルジー。
だが、それは、あまりにも、創作者の創造性と知性を軽んじる行為だろう。
創作者の趣味に還元できる程度のものは、アマチュアの趣味作品だ。
だからこそ、アマチュアの趣味作品は、薄っぺらい。
もし、薄っぺらいのなら、その上にこれだけの大勢の人間の感想を載せることは出来ないはずだ。
このサイトだけで、もう900人以上が書いている。
それに、ノスタルジーは別に悪いことではない。
作者が作者自身を回復させるために、真実だと思ったことを描き切る。
その真正が、他の人間を触発する。それも作品のメカニズムとして真っ当だと思う。
だが、そう思う反面、それを、エヴァンゲリオンで、認めたくない気持ちも強くある。
自分でも、なぜ、認めたくないのかが分からない。
なぜだろう。戸惑う。
だって、エヴァが田舎のほのぼの生活を肯定しているのだ。
どうしよう。どうしたらいいだろう。
「田舎のほのぼのスローライフこそ人間の本当の生活だよね」ということか?
いやいや、いやいや、そんな。
その日常生活のなかで沈殿してしまう負の感情を解放してくれるのがアニメじゃなかったのか。
その習慣の惰性のなかで圧迫されてしまう個人の心の機微を掬い取ってくれるのがエヴァじゃなかったのか。
ニアセカンドインパクトからの復興。
回復と前進。生命の前向きな肯定。
魂の回復。
地に足を付けた生活。
他人との会話。
その重要性は分かる。
だけど、とんがっているのがエヴァだったのに。
オシャレクール、退廃的な悪い大人と成長痛に苦しむ子供がエヴァだったのに。
いや、だがしかし、とんがり続けて、大人になれず、十五の夜を繰り返し続けているから碇シンジは不毛だったんじゃないか。
「みんな酷いよ」
「もうほっといてよ!」
いや、さすがにそろそろ、ちゃんと生きようよ。
いじけているだけの背中を26年見せられて、こっちはいったいどうしたらいいんだ。
そう思っていたのも事実である。
昔のとんがったエヴァらしさを、最後まで全員が、十字架のように負わされてしまったら良かったというのか?
いや、そうではないはずだ。
そもそも、論点の立て方がおかしいのかもしれない。
「田舎暮らし」にフォーカスを当てるから、もやもやするのだ。
そもそも、第3村は、「田舎暮らし称賛風人生の楽園」ではないはずだ。
誰も選択したわけではない。
災害に追いやられて、あそこに流れ着いたのだ。
あれは、復興途上の避難した人々の希望の灯を絶やさない生活であって。
そのかけがえのない慎ましい生活すらも奪おうとしている対人恐怖症患者が碇ゲンドウなのであって。
誰もあの自給自足生活を選択したわけではないのだ。文明の利器と、人類の叡智の蓄積と、他の共同体との物品交換を、信念で拒否しているわけではない。
いや、村のみんなや、村の暮らしに意識を引き摺られ過ぎているのかもしれない。
それほど、エヴァンゲリオンの中での村暮らしは衝撃的だったのだ。
ほのぼのムービーをエヴァンゲリオンで見るなんて。
だが、あくまでも、登場人物一人一人の精神世界にフォーカスするのが、エヴァンゲリオンの醍醐味のはずだ。
だから、登場人物一人一人を見ていく方が、このもやもやとする感想の核心に近づけるのではないか。
綾波レイ。
一世を風靡した薄幸の美少女。
彼女が、生活を教わった。
それは本当に良かったと思う。
おはよう、おやすみ、ありがとう、さよなら。
他人の幸いを願うおまじない。
おはよう、今日も一緒に生きていくためのおまじない。
おやすみ、安心して眠れるおまじない。
さよなら、また会うためのおまじない。
教えて貰えて良かったね。心からそう思える。
式波・アスカ・ラングレー。
勝気な態度で心を守りながら、懸命に生きる美少女。
現実から逃げないその態度は、クローンのため非現実的で、浮世離れした人形のような綾波レイとは別種の美しさがある。
アスカはいつも頑張っていて、偉かった。
彼女は最後の最後まで、とんがった側に置かれていた。
アスカは、いつも、苦労のし通しである。
むしろ、作者の信頼なのだろうか。アスカなら、どれほどボロボロになっても、折れずに居てくれる。
最終作では食べ物も食べられず、眠ることも出来ず、
クローン人間として、人間の頃には持っていた羞恥心や葛藤や個性を失って生きている。
口に押し込む形ではあったけれど、シンジに食事を食べさせたことは称賛に値する。
前作であれだけ止めたのに無視をして暴走したシンジを見捨てていない。
他人の世話を焼いているのだ。他人を気にかけているのだ。
このエヴァンゲリオンの世界で、他人を配慮する余裕のある人間が、一体、何人いただろうか。
みんな自分でいっぱいいっぱいの、追いつめられた人たちだった。
アスカは、あれほど苦しめられた自分のエゴやプライドを守る必要もなくなって、
妙に清々して見える。
そして、大人になった相田ケンスケという理解者を得られたこと。
心の対話相手である、赤い手作りの人形を、ケンスケが着ていたこと。
苦しみ続けて「気持ち悪い」と言いながらも、いつも最後まで戦っていたアスカに、帰る場所が出来たこと。
それは本当に良かった。
シンジがアスカを真っ先に救い出して、マリに祝福されて、ケンスケのもとへ送り還される。
真希波・マリ・イラストリアス。
テレビからの愛着のある登場人物と比べれば、
ぽっと出で、余所者で、傍観者で、第三者の真希波マリ。
だからこそ、ストーリーテラーとして、進行役としての役割を、外部者として担うことが出来る。
シンジは最後、マリと手を取り合って、マリを先導する形で、自分の意志で、あのシンジが積極的に、走り出すのである。
現代社会の、それも地方都市の、なにげない小さな駅から、二人は生き生きと颯爽と前に向かって走り出す。
彼らはこれから、名もない二人の市民として、生きていくのだろう。
華やかなパリや東京ではなく。勝ち組や出世や富裕層や社会的地位や難解な職務などではなく。
彼らが幸福な人生を暮らすのに必要なものは、外部要因ではない。
自分を幸福にするのは、自分が未来へと前進してもいいのだという、自己肯定感のある自分の認識だ。
所詮、世界とは自己の認識の総体なのだから。
それをかれらは26年掛けて学び尽くした。死線を搔い潜りながら、いやというほどに。
それは、奇しくも。
人類補完計画と同じゴールでさえあると私は思う。
ゲンドウは言った。
「他人との差異が無く、貧富も差別も争いも虐待も苦痛も悲しみもない。浄化された魂だけの世界。」
それは、自分と大切な人を愛する人生でも、実現できるのである。
貧富や差別や争いや苦痛や悲しみとは、話し合い、毅然として、戦う。
やめてほしい、それはちがうと、言い続ける。
そして、時には、逃げてもいい。
傷つき、血を流しうろたえる子供としてだけではなく。
大人として、向かい合う。
それこそが、ゲンドウが出来なかった、すぐそばの自己補完計画と言えるだろう。
マリの話に戻ろう。
マリは、イスカリオテのマリアと呼ばれる。
イスカリオテのユダは、十二使徒の「裏切り者」の代名詞だが、恐怖に負ける弱くて完璧ではない人間、愛しすぎた果てに憎しみに転化してしまう人間の象徴として、奥が深い存在だ。
マグダラのマリアは、イエスの死と復活を見届ける証人。罪深い女。改悛した女。さまざまな解釈が錯綜する存在だ。最後まで、イエスであるシンジ(神児)に付き添う。母でも恋人でもない女。
葛城ミサト。
誰もが大人になったけれど、
彼女は本物の、碇シンジを信じる、碇シンジの保護者になっていた。
彼女に潜む、不安定な影は、すっかり消えていた。
赤木リツコ。
中二還りしたゲンドウ氏に幸せの形が見えていないなどと物凄く余計なお世話なことを言われていたが。
はっきりと言える。
「ゲンドウ君、私が持っていてあなたにはない、信頼された仲間と人生の楽しみと人間としての生活を総称して、幸せと呼ぶのよ。」とでも、言ってやって欲しかったです。
「私があなたと知り合えたことを
私があなたを愛していたことを
死ぬまで死ぬまで
誇りにしたいから」
挿入歌「VOYAGER〜日付のない墓標(林原めぐみ/原作:松任谷由実)」の文句通りに。
文句のつけようのない大団円だったと思います。
すべてのエヴァンゲリオンに夢中になった皆さん、お疲れさまでした。
リアルタイム世代にとっては大きなカタルシス。成長と回復の物語
テレビ放送をリアルタイムで見て(私も14歳だった)、新旧劇場版も全て見ていますが、見終わって幸せな気持ちになるのは、シリーズで初めてじゃないだろうか!?
全体を一言で言えば、
「成長と回復の物語」
『やっと。。。やっと、ここまでこれた。。。(涙)』という感じ。
新劇場版シリーズ(序・破・Q)は、正直な感想としては、あまり面白いとは思っていなかった。
【序】
テレビ版とほぼ同じ構成。
絵が綺麗になったり、演出が良くなったりしてはいるが、テレビ版と旧劇場版をリアルタイムで見て、ドップリはまった者としてはモノ足りない。
【破】
「普通」の秀作アニメ。
世の中ではとても面白いと絶賛する意見も多かった。
でもリアルタイムでどっぷりはまった人間からすると、「なんか違う感」、「心に刺さらない感」が非常に大きい。
ロボットと怪獣を舞台装置とした、ほぼ普通の秀作青春ドラマ。
「登場人物の心の深い部分に沈んでいく」ような、「自分の心を凝視する」ような、そういう成分が少なかった。
テレビ版が、【破】のようなストーリー展開だったら、おそらく出来の良い普通のアニメ止まりで、社会現象にはならなかっただろう。
【Q】
「難解さ」は戻ってきた(笑)。観客おいてけぼり感が大きい。
ストーリー上の細かい設定や難解かつ意味深な独自用語は、物語世界に重厚さを与えていた。また物語世界の全体を見渡すことを難しくし、ミステリアスさが生まれ、観る者の好奇心を煽った。
これらはすごく重要な要素だった。
が、それが本質かというと、違うと思う。
それほど優れた作品とは言えなかったと思う。
【シン】
とても良かった・・・。
おそらく、私のようなリアルタイム世代にとって、大きなカタルシスとなるものだと思う。
当時14歳だった主人公とその周辺人物の(そして、当時これに深くはまった人たちの約25年間の)「成長と回復の物語」と言っていい。
だって例えば、旧劇場版のクライマックスで挿入される曲「Komm, süsser Tod ~甘き死よ、来たれ~」の歌詞と、シンの終盤を比べてみてよ。。。(感涙)
拒絶から受容へ、対立から共感へ、依存から自立へ
ラストシーン
マリ『さぁ、行こう!シンジ君』
シンジ『うん、行こう!』
とシンジが「自発的に」マリの手をとり、マリがそれに驚くシーンに、
そして二人が階段を登って、実写の街に溶け込んでいくシーンに、深い感慨を覚えた古いファンは多いと思う。
25年かかって、やっとここまでこれた。。。
そして、これでエヴァンゲリオンの物語がすべて終わりなのだなと感じた。
見終わった後の気持ちは、劇中のこの台詞がぴったりだと思う。
『さようなら、すべてのエヴァンゲリオン』
終わった
TVアニメをシンジ君と同じ14歳で見てきた僕も40歳になりました。今作を観終わった時、僕の青春がやっと終わったんだな…と思い涙が止まりませんでした。高校生の頃、旧劇場版を観た帰りに友達と「ほぼ総集編じゃん!」と怒った事。社会人になって、新劇場版を観た帰りに「これが観たかったんだよ♪」と興奮した事。中年になり、新劇場版Qを観た帰りに「何でだよ庵野さん!」と怒った事。今までの全ての想いが無駄じゃなかった。全部拾って昇華させてくれた庵野さんや製作陣に感謝しかありません。生きてこの作品の終わりを見届けられた僕は本当に幸運でした。
それ自体の偉大さ
テレビシリーズをほぼリアルタイムに見てきて、エヴァが終わるというので重い腰を上げて観てました。
内容うんぬんよりも、碇シンジや綾波、アスカが多くの人の心の中に20年以上も生き続けてきたという奇跡を思いました。こんな不思議な奇跡を起こした庵野さんは凄いと内容うんぬんは別として思いました。
「内容うんぬん」については正直、もはやどうでも良いように思いました。
このキャラクターたちが多くの人達の心の中に在り続けた事。心にひっかかり続けた事。
それ自体が偉大すぎて、何をやってもそれ程の意味はないとすら思いました。
結末はハッピーエンドです。
必然性があろうとなかろうと、私たちが顔を上げて生きていくためにハッピーエンドでなくてはならないし、庵野さんはそれに応えてくれました。
世の中はままならないものですから、正直あまいと思いましたが、最後はハッピーエンドである必要がある、そんな映画だと思います。
庵野さん私たちに魅力的なキャラクター達を植え付けてくれてありがとうございます。あなたが作り出した彼ら彼女らは私たちの心に生き続けていきます。おそらく墓場に入るその日まで(!)それは本当に奇跡です。
エヴァファンの皆様、卒業おめでとうございます。
かと言って、私も卒業。
新世紀時代からずっと変わらぬテーマ。
『大人になろ』
『ニートやめて、仕事しよ』
2度目、観賞後…
テーマは、
『妻への愛』
マリが鼻歌で歌ってる『世界は二人のために』が全てを物語っているように思いました。
愛妻家って素晴らしい。
わかる人にはわかる映画
三回見てきました
変更点や特典もふくめて満足しました
シンは見ましたが 昔の旧劇のまごころを君には 一種の芸術ともいえる映像でインパクトもありますし好きです あのラストのサードインパクトは わかる人にはわかる内容をはっきりだしてます
都市伝説やもろもろ知ってれば表現したいことはだいたいわかります
それにたいして 今回のシンは 曲もそうですし 各シーンが対比になってるところもあります
旧劇は 甘き死よ来たれ
心身は 日付のない墓標
人の死にたいして 絶望と それをうけとめる未来
りつ子さんの 銃のシーン
まごころを君にでも 最終的にシンジ君は絶望のはてに 世界をひとつに望まないでいましたが テレビシリーズでも旧劇でも 心の葛藤と成長はあったものの 今回父親をとめ 人の死を乗り越えるということをして より心の成長を描いてました
背景もいわゆる宗教や 都市伝説もからみつつ ゲンドウとのシーンは精神世界を描いてて かなり深い映画ですので 表面上だけでは見てはわからないと思います
エヴァンゲリオンは世界でも日本でしか作れない映画です
それは間違いないと思います
宗教とかで問題になりますし 繊細なメッセージはなかなか難しいですからね
現象世界でも いろんな世界の可能性を示してくれているのです
あの 第三村はすごい大切なメッセージかなと思います
×エヴァだからすごい ○すごい映画だからすごい
エヴァと言えば難解なことをこねくりまわして言わねば……というような流れが年月を経てユーザーの間で勝手にできてしまっていたが、本作はその必要が全然ない。かといって全編が説明的であるかというとそうではなく、
・難解な内容を説明しきった作品、ではない
・そもそも描かれていることがシンプルな作品、である
そして
・そのシンプルさは、人間の根底に響くどこまでも深い「王道」の良さである
という完成を果たしている。
シンジという1人で世界の命運を背負わされた少年に、シンジになれなかったただの大人達になった元少年少女たちが温かく接して、シンジは少年から青年へと成長し、成長を止めてしまった父と父の用意したエヴァを超えて、自分の世界の一歩を踏み出す。
遠い過去にエヴァンゲリオンを視聴し、シンジ=世界の命運を握る力を与えられ、悩むことを許された中学生に憧れた少年少女であった私たちは、彼のような世界の中心にいる存在にはなれないまま、その後の混沌とした十数年・二十年をなんだかんだ生き延びて、すっかりおっさんおばさんになってしまった。というか、もがいていたら、なれた。いろいろあったけど、本質はほぼ変わらないまま、ちゃんと生きてる。その凡なる私たち(はっきり言ってケンスケ)が、特殊な力など持たずともシンジを助けて結末を見届ける構図は、「さよなら、全てのエヴァンゲリオン」にあまりにもふさわしい筋立てだ。
かつて「特別な少年」で、憧れや嫉妬の象徴であったシンジが、今や応援の対象になっている。
そしてエヴァは性能的には盛りに盛って凶悪化しているのに、画面の隅で子供のケンカのような戦いをしている程度に封じ込められていく。書き割り、撮影現場。「作られたもの」だった。憧れ求めていた力がちっぽけだったと私たちが俯瞰したそのとき、シンジもまたエヴァの力ではなく自身の言葉で父を理解して、父とは違う一歩を踏み出す。倒す、というよりは独立する。
言ってしまえば「少年少女の独り立ち」という実にジブリ的な脚本なのだが、冒頭の引きや演出などエンタメ的な配慮、最新技術も駆使してどこまでも貪欲に追求された映像表現など、
・「非常によくある強い脚本を」
・「今の人間の限界でつきつめてみたらどんな作品になるか」
・「それも、エヴァの終わりということで」
という、天才たちの挑戦ここに極まれりという内容になっている。
3時間という尺があるが、夢中になっているうちにあっという間に終わってしまった。エヴァQは個人的に「最低」とすら思える出来だったが、エヴァQが前編でシンエヴァが後編として一気見すれば、普通に良作以上に思えてしまいそう。
ここまでシンプルな「映画力」で勝負してくる、最高点を打ち出すとは全く思っていなかったので、大満足な結果となった。「エヴァだからすごい」ではなくて「すごい映画だからすごい」。王道脚本の手堅さは当然として、それを他を突き放すレベルの映像で表現しきっているのだから、進歩を止めず一段階も二段階も上を達成した製作チームに拍手を送りたい。声優たちも歴戦となったプロ中のプロばかりで、一切の妥協無し。プロフェッショナルたちが挑む世界観を完璧に表現してくれている。
「手堅い脚本」「声は話題性起用」「いつもの絵」で「これがアニメ映画だよ」としていた人たちが、一番焦っているように思う。とくに声優たちの一切の妥協がない(ゆえに話題性もない)座組については、作り手として格の違いを見せつけられたと言われても仕方がない。完全に軸をかぶらせて前ではなく上に行ったので、これはこれでシンジのゲンドウに対する決別というか独立なのか。まあそんなことはさておき、この映画は面白く、素晴らしかった。
新劇場版は、4作を通して大傑作となった。
鑑賞者への想いやりに満ちた傑作
20年という歳月の中で、エヴァンゲリオンという作品に触れ、そこに依存の様なネガティブなもの含め、様々な思い入れを持つ人たちのために、エヴァンゲリオンが前向きな方向に開けながら終わり、乗り越えるよう導く、慈愛に満ちた作品だった。
主な依存の対象となる、ひとりひとりのキャラクターについて、丁寧に蟠りをほどき、説明し、流れるべき方向へ解決させていく。
特に、碇ゲンドウについてのパートにおいて、シンジとの関係性の整理に至った事で、このエヴァシリーズにおける完全な物語的帰結に至ったと個人的に思う。アニメシリーズ当時10代だった自分たちは、大人になり、親になった。当時、恐れ、理解不能、克服不能の象徴的存在であったゲンドウが、今作において、今、図らずも父となった自分が、子との関係性に迷い不安を持つひとりの親として、男として共感の念を抱いたのに、自らに驚いた。
世界設定に関しても合理的な展開、結末を見せつつ、同時にそれが虚構であるという事についてもキャラクターに言及させている。それは本作が虚構のアニメ作品であるという2重構造と取りつつ、観客に対してある意味で、ややこしい、そして面白い、世界設定を詳細に理解出来なくても、あなたはこの物語を消化出来ますよ、と投げかけてくる様である。だって虚構だから面白いんだから。
終盤にかけての、アニメのリアリティにメタ的な揺さぶりをかける映像表現的な実験には、単なる技術的な挑戦ではない、本作のメッセージ性と連動した意味付けがなされ、前向きなラストへむけた「気付き」を観客に促している。
基本的に、庵野秀明監督が訴えている事はアニメシリーズの時から一貫して変わっていない。今作もある意味同じ事を言っている。しかし、それを伝える為の方法が優しく、慈愛に満ちたものになっている。監督自身にとってのこの20年の歳月や出会いも影響しているのだろうか。スタッフを含め多くの制作に関わる人たちの優しさが本作から感じられた。
ありがとう、さようなら。エヴァンゲリオン。
一つの伝説の終わり
まずは庵野監督に、本当にありがとうと伝えたいです。
新世紀エヴァンゲリオンから劇場版2作、そこから長い間隔が空いてのシン・エヴァシリーズ、そのグランドフィナーレを見事に締めくくってくれました。
新劇のアンサーとしての破のように、そして過剰に無機質で説明不足な前作Qは、生々しい生命感あふれる今作の対比としての存在でした。
エヴァという長いサガの中で、シンジが最も伝えなければならない一言を、ついに相手に伝えたラストの戦い。
これはシンジが大人になる物語であり、作中でもっとも子供だった碇ゲンドウ、そして多分庵野監督自身が大人になるための物語でもあったのでしょう。
優れた映像と演出技法のオンパレードで、自らの心をさらけ出してくれた庵野秀明という一人の表現者に、心から感謝と賛辞を送りたいです。
Beautifulworldって最高だよね
リアルタイムでTV番見てた思春期
もしあの当時のままこの映画を見てたらどう感じただろう。
根本は結局テレビ番のラストと同じなのかもしれない。
庵野監督が全てをかけて沢山のスタッフさんや、声優さんが練り上げた終わり方だったんじゃないかなぁと思えたのは良かった。
パンフレット買って良かった。
げんどおおおお?!?!知ってたけど、げんどおおおおおお!!とは思ったけど笑
そして、Beautifulworldはもう当時から好きだったけど。こんなにもエヴァに合う曲はないよね。
とりあえず、Onelastkiss買ってこなきゃ。
きっと庵野監督の中ではTV版が終わりだったんだと思う。
その後出来る限り色んな人に寄り添いながら、落とし処を今現在の最適解のエンディングが今回の終わり方だったんだと思う。
二回もバットエンディングにした方が、今回はハッピーエンディングに近い形にしたのはそういうことじゃないだろうかなぁ。
きっと根本は変わらないけど、ほぼ真逆のエンディング書くってきっと相当な精神の負担がかかると思うわけで。
影響力が大きい作品ほど、賛否両論になりやすいと思う。以前のエンディングで良かったと思ってる人も居るだろう。今回は、それまでのエンディングに納得で来なかった人々への出来る限りのプレゼントなんじゃないかなぁと思う。
3つのエンディングのどれかでも納得できなかった人も居るだろうけど、劇場版は旧も含めどれも何かに寄り添って落とし処を着けてエンディングを書いてくれたんだと思う気がする。
全員の気持ちを納得させる事なんて神にすら出来ないんだから。
とりあえず、寄り添って鬱に成る程悩んで終わらせてくださった事に感謝したいと思う。
終わらせない(出来ない)作品なんて割とある。
なんなら、ぶっちゃけ結局作れないでこの世を去られちゃうのではないかと
思ってすらいたから余計に終わらせてくれてありがとうございましたと、お伝えしたい。
なんて言ってみるのは今回がハッピーエンドよりだったからかもしれないけれど。
とりあえず、頑張っただけの報われが監督やスタッフさん、声優さんにあるといい。
影響力がある作品に携わるってそれはもう光栄でありながら、きっと大変な事だったであろうから。
声優さんも変わらずオリジナルの方が演じてくださったし。
とりあえず、本当に皆様お疲れ様でした。
ありがとうございました。
「最高」の一言に尽きる ※6.14追記
公開日から通算して6回程観ました。
今までエヴァ及びヱヴァを追ってきた私や皆さんへのご褒美のような内容でした!!
皆さんが様々な感想、考察をされているので私は「最高」とだけ言っておきます。
ただし、新劇場版のみ観ている人には「???、とりあえずなんか盛り上がってるから盛り上がっとこう!」ってシーンが多いと思います。ぜひアニメ、旧劇、漫画(できればゲームやパチンコ、今までのコラボ等)も履修されるとより楽しめると思いますよ!
6.14 追記
前回の入場特典追加時に1回、
EVANGELION:3.0+1.01の公開が始まり、12日と13日に観てきて通算9回となりました。
新規カットの差し替えがちょこちょこあり、思ったよりは多かった印象です。でも続けて何回も観てないと分かりづらいかも?です。
12日からの入場特典は満足度120%、正直入手必須レベルの代物です。ぜひラストランを劇場で楽しみましょう!!
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