劇場公開日 2021年3月8日

「もう一つの『日本沈没』としてのシン・エヴァンゲリオン」シン・エヴァンゲリオン劇場版 赤ちゃん番茶さんの映画レビュー(感想・評価)

2.5もう一つの『日本沈没』としてのシン・エヴァンゲリオン

2021年7月28日
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【1】総評~エヴァンゲリオンの要約にかえて

 90年代にエヴァンゲリオンが登場した際の問題提起は斬新で強烈だった。現代日本人は他者への依存から如何に脱却し自立すべきか、という命題を、難解そうなユダヤ=キリスト教風の用語や理論物理学風のジャーゴンを散りばめたプロットに流し込み、わかったようなわからないようなターミナル・ケア風のオチに持ちこみ、作者自ら回答を回避した(TV版)。しかし、話が畳めていないと作者は再考したのか、アスカにシンジを拒絶させる結末に作品をなんとか着地させた(旧映画版)。旧版とは異なる結末を想定したのだろうか、TV版や旧版とは異なるキャラ配置とプロットで、再び問題提起に解答を試みた(シン映画版)。
 作者の投影であるとおぼしき碇ゲンドウが亡き女房に逢いたい一心で「人類補完計画」を紡いだ、というシン映画版の畳み方に、私はなんだかな~とモヤモヤしてしまう。むろん、スッキリ物語を畳めないから、ダメなのではない。私が観るに、作者の問題提起は様々な作品により既に解き尽くされた観があり(『コードギアス』等々)、どこまでも陳腐な答案にみえてしまう。もっとスッキリ踏み込んで、解答できたはずなのに、と考え始めると、四半世紀も問題を解きあぐねた末、ついに時代の速度に追い付けなくなった無惨さすら、シン映画版のオチには覚えてしまうのだ。だが、はたして、それだけなのか?このモヤモヤ感は、きっと主題の読み方を根本的に私たちが誤っているからではないか。二番底を私たちが見落としてはいまいか?

【2】子宮からの離脱ドミノ

 本作の屋台骨は、子宮のなかで羊水に浸り、眠りこける胎児のような現代日本人がどう自立すべきか、という命題解答にあるが、このモチーフは『日本沈没』と同系列のテーマ性にあるのは、謂うまでもない。京大でイタリア文学を学んだ小松左京が黙示録的な『日本沈没』を書いたように、本作もやはり黙示録的内容である。ただ異なるのは、小松左京の『日本沈没』が大文字で日本人を主語に見立てた小説であったのに対して、本作の主語は日本人であるワタクシ=作者である点だ。

 『日本沈没』へのオマージュだからこそ、京大の冬月ゼミの門下生たちによる子宮離脱ゲームは、沈没しゆく日本列島から如何に逃げ延びるか=民族として自立するか、という『日本沈没』の未完のストーリーをダウンサイジングして継承されたものだとも謂える。
 この種のネタを巧妙に自分語りに布置するあたり、さすが庵野氏だと感心するが、碇ゲンドウに象徴されるのは、むろん作者自身ではあるが、隠されたテーマは『日本沈没』的命題を解くことにあるから、シン映画版完結編の前半が牧歌的なムラ共同体を一時間も描くのは当然なのだ。つまり、セカンドインパクトとは第二次大戦による敗戦後の日本社会であるのだ。そう考えないと、作者の故郷山口県宇部市の重化学コンビナートを実写映像でラストに持ってくる理由がスッキリしない。

 多くの鑑賞者を碇ゲンドウ=庵野氏のワタクシ語りの顛末と、巧みに誤読させる手法は流石だが、では、肝心の子宮からの離脱ゲームを上手く遣りおおせたかは、大いに疑問だ。

 だが、子宮からの離脱ドミノが昨今の思潮であれば、いつまでも子宮の中で眠りこけてばかりもいられない。あの結末が凡庸で陳腐であればあるほど、現代日本人が如何に自立するかという命題は切実だからである。しかも、その自立方法は既に日本人という大文字では既に括れない現実に自覚的である作者には、碇ゲンドウを作者だと読ませることでしか、問題提起の深刻さを主張できずにいるのだろう。

 エヴァンゲリオンとはなんだったのか?と問えば、もう一つの『日本沈没』であり、その命題は私たち日本人が個別具体的に解いていかねばならないのであろう。こう考えると、なぜ作者がシン劇場版を製作したのかという理由も見えてくるだろう。日本人として各人が答えを見つけなければならない、という問題提起こそ、シンのエヴァンゲリオン的問題提起ではなかったか。

 だから、作者=庵野氏の答案は解答例の一つにすぎない。あのオチはいろんな答案の一例だと見抜かないと、シンのエヴァンゲリオン理解にはつながらないような気が私にはする。

赤ちゃん番茶