そう。私は、こうなるのがいやだった。
エミリアは、生後三日目の愛娘イザベルを失い、ベビー用品を揃えた部屋やベビーカーを持て余す。…そんなシーンは、様々な映画でさんざん見てきた。例えば、最近では「アジョシ」。ベビーシューズを買ったとたん、悲劇が主人公を襲う。(それにしても、なぜ映画の中の住人は、実用性の低いベビー用品に真っ先に飛び付くのだろう?)
手に入れると、失うのが恐くなる。手に入れたものが大切でかけがえのないものであれば、なおさら。だから私は、一見手に入れたかに思える「それ」は、自分の力ではどうしようもなく失われることがある、と常に自分に言い聞かせていた。ちいさい命が赤ちゃんとして世に生まれるのは、並大抵のことではない。お腹にいるときに不幸にして失われてしまう命は、決して少なくない(…と、妊婦になって得た知識で改めて知った)。また、生まれ出たとしても、この世界は決して安全ではない。思いもよらぬ出来事があちらこちらに潜んでいる。
そんなことばかりが頭をめぐり、私はとてもベビー用品を買い揃える気になれなかった。店に足を踏み入れることさえ恐れていたかもしれない。そんなことをしたら、運命のいたずらが察知して不幸を招くのではないか、そんな気がしていた。生まれてからのことを甘く想像することさえ、頭の中が覗かれるように思えて落ち着かなかった。
幸いにして、小さい命が世に出て数十日。今ではそれは、ではなく「彼は」存在して当たり前、として私の生活は回っている。授乳リズムに基づく一日の動きはもちろん、日々成長し変化していく以上、先々のことを甘く・シビアに考える。買い物では服のサイズを気にかけ、おむつのストックがないと不安になる。今でも、自分ではどうしようもない要素があることに変わりはない(言わずもがなだが、映画にも登場するSIDSだけが危険因子ではない。転倒、衝突、落下、誤飲、病気…等々)。けれども、恐れてばかりではいられないのだ。恐れる以上に、待ったなしのあれこれが日々起こる。その時はその時と、腹をくくっていくしかない。
映画を見ていて、あれっと思ったことがある。イザベルは、生後間もなく自宅で命を落とす。日本では一週間程度入院するのが大半だが、アメリカは退院が早いらしい。産後の母体の衰弱とケアの必要性を考えると、日本のスタイルであれば、彼女の悲劇は防げたかもしれない。そんな気がする。
冷淡、不謹慎と言われないかとひた隠しにしてきたもやもやを、家人に話すきっかけになったこの映画に、感謝する。
ちなみに、乳幼児突然死症候群(SIDS)は、生後3〜4ヶ月の赤ちゃんに多く発生し、脳における呼吸循環調整機能の未発達が原因と考えられているが、はっきりとは解明されていない。防止策として、うつぶせ寝など窒息の危険を回避する、部屋を暖めすぎない、家族は喫煙しないなどがあるが、特に欧米の育児書では「添い寝」の効用がうたわれている。乳幼児の急変をすばやく察知するには、従来の親子別室は不足というだけでなく、文字通りの添い寝=親子でひとつのベッドに眠る素晴らしさ(体温低下による呼吸機能低下を防ぐ、スキンシップが増える、情緒的発育の促進…)を説くものも多い。一方日本の育児書は、添い寝の効用を認めながらも、授乳中に母親が疲労から寝入って窒息する危険を指摘し、生後間もないうちは布団やベッドを並べたスタイルを推奨していることが多い。