恋人のいる時間

劇場公開日:

解説

「軽蔑」のジャン・リュック・ゴダールのオリジナル脚本を、彼自身が監督した恋愛映画。撮影は「軽蔑」のラウール・クタールが担当した。出演は「熱い手」のマーシャ・メリル、「輪舞(1964)」のベルナール・ノエル、「濡れた本能」のフィリップ・ルロワのほかに、監督のロジェ・レーナールが特別出演している。

1964年製作/フランス
原題:Une femme mariee
配給:松竹映配
劇場公開日:1965年2月20日

ストーリー

シャルロット(マーシャ・メリル)には夫(フィリップ・ルロワ)と一人の子供がいるが、地方巡業劇団の俳優をしている恋人(ベルナール・ノエル)がいる。彼女の興味の対象は週刊誌「エル」や「マダム・エクスプレス」であり、もっと正確に言えば彼女はそれらによって創られ生きている。アパートで恋人は彼女に、返事は明日でいいが、夫と別れて自分と一緒に暮そうともちかけた。彼とアパートを出たシャルロットは、途中で彼の車を降り、タクシーを乗りついで夫をむかえに飛行場に行った。自家用飛行機のパイロットで、パリにいないことの多い夫が私立探偵をつけているらしいことを感づいたからだ。ドイツから来た客レーナールがしきりにアウシュビッツの話をしかけても、シャルロットにはまるで通じない。夜、レーナールをまじえて話しあった。--まず夫は、過去についてアウシュビッツを、シャルロットは現在について人妻である自分を。レーナールは知性について、ある国籍を離れた知識人のことを。そしてシャルロットは自分が夫を愛していることを確かめる。翌朝、恋人が電話で巡業に出る前に会いたいという。このようにシャルロットは、恋人のいる時間と夫のいる時間を、時計の振子のように行き来する。女中と週刊誌の記事についておしゃべりをしてからプールに出かけ「エル」を見て時間をつぶす。恋人に会う前に医者のところへ行くと、妊娠三カ月と告げられた。そして子供が、夫のものか恋人のものか分らないと打ち明ける。恋人と映画館に入り、記録映画の最初を見ただけでホテルに行く。恋人が昨日の返事を求めると彼女は、子供のことを話すが彼は何でもないことだと言って彼女を怒らす。そして二人は、ラシーヌの「ベレニス」の本読みを始める。「ベレニス」は彼らの愛情がどうにもならないことを暗示している。

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映画レビュー

4.0人は見たいものしか見ないし、見えない

2008年5月27日

知的

ゴダール。いわゆる“ゴダール”と聞いてイメージする--難解、小難しい、理屈っぽい、わけがわからない--そのままの作品。若奥さんが旦那と愛人との間をいったりきたり。しかもどっちの子を妊娠したかわからない、といったストーリーを実験的に映像化。出演者の演出なのか素なのかわからないインタビューがでてきたり、生活音をそのまま同時録音してせりふが聞き取れなかったり、テキトウな会話を録音して盗み聞き風に仕立てたり、ネガポジ反転映像を使用したり。またゴダール特有の人を食ったようなB.G.Mの使い方はここでも生かされており、人がただ馬鹿笑いする声が録音されたレコードをかけながら夫婦が(冷え切った関係を理解しながらあえて無邪気に)追いかけっこをするシーンが印象的だった。そんなアバンギャルドな展開も、ストーリーがシンプルなのでまだ見ていられる。冒頭、白シーツの上で男女の手が絡み合うシーンで始まり、絡まりを解くシーンで映画は終わり円環は閉じられる。

ゴダールは作品の中で常に相対化、「距離」をテーマに映画作りを行っているように思える。おそらくドゥルーズ先生もそういっているハズ(テケトウ)。それは妻と夫、愛人と妻、といった登場人物の「距離」だけではなく、鑑賞者と出演者、出演者と物語、鑑賞者とゴダール、ゴダールと映画、そういった「距離」についていかに自覚的になるか、そこを繰り返し言及しているのではないだろうか。「恋人のいる時間」では、単純な婚外交渉をテクストに外的世界と内的世界について外的世界を通して映し出されるオノレの内面を炙り出そうとしているようだ。

さまざま雑誌の広告、あるいは標識、街角の看板、その他から主人公の心象風景にそぐう言葉をカメラが捉え、あるときはナレーションされる。そういう意味では内的心象風景を投影したものが目に映ることの証明--人は内的な心象を外的環境に投影し意味を読み取ろうとするものである、というようなことを表しているのだろう。つまり人は見たいものしか見ないし、見えない。

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瑠璃子
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