劇場公開日 1991年11月2日

「60年代のヒッピー文化の終焉の物語」インディアン・ランナー あき240さんの映画レビュー(感想・評価)

4.560年代のヒッピー文化の終焉の物語

2018年11月1日
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鑑賞方法:DVD/BD

Traffic
Jefferson Airplane
Quicksilver Messenger Service
Creedence Clearwater Revival
Janis Joplin
The Band
これらは劇中で流れる曲のアーティストだ
どれも1967年頃から一番新しいので1970年頃までの楽曲だ、ヒッピー文化を濃厚に伝えてくる音だ
だから、画面にはその頃の時代の空気が濃密に詰まっている

兄弟愛、家族愛、子供への愛、両親への愛
痛いくらいにそれらの愛が詰まっている物語だ
しかし、それ以上に60年代のヒッピー文化の終焉の物語でもあった

フランクはその60年代の自由気ままな生き方がもてはやされた時代を象徴する人物だ
そしてジョーはそこから卒業して大人になって行った60年代を卒業した人物を象徴している
二人は共に60年代に育ち深い絆で結ばれているにも係わらず、フランクは60年代を卒業できないのだ
自由を忘れたくない、大人になりたくない、自由でいたい
いつまでも永遠に若いつもりでいるのだ
しかし現実には自分が変わらなくても時は進む
兵役から戻って見ればそのギャップに驚く
兄は体制側を象徴する正に警官となり、家という資産を持ち、結婚もし子供も作り家族を中心とした大人の社会の住人になっていたのだ
だからこそ彼は驚き、困惑し、不機嫌になったのだ
時が経てば両親も死ぬ、彼女が妊娠もする
時は彼を待ってはくれないのだ
当たり前の話だ
ベトナム戦争の悲惨な現実が云々なんて関係ない

インディアンランナーのメッセージ
そんなものはヒッピーの吸うヘロインの煙のような戯言だ
そんなものに意味はない
ランナーとは逃げる者の意味だ
だから題名のインディアンランナーとは本当は逃亡する敗残者という残酷な意味でしかない

フランクとは、すなわち60年代のヒッピー文化を限りなく愛し、その価値観を守って人生を生きていこうとする生き方なのだが、そんなことが出来るわけがない
いつまでもカウボーイごっこでじゃれあえる子供のままではいられはしないのだ

ジョーはそれが分かっている
即ち原作者と監督と観客側の目線なのだ
しかしフランクは現実から逃げていったのだ

それは団塊の世代の人々の心の中の心象風景なのだろう
彼らの心の中でフランクはいつまでも逃げているのだ
しかし表面はジョーのように日常に追われ責任を果たした生活している
彼らの胸の奥にはフランクの逃げる車のテールランプの光景が残されているのだ

本作公開からさらに30年近く過ぎようとしている
彼らももはや、本作の兄弟の両親のように老人となった

60年代を忘れて、彼らの母のようにフランクを見捨てるのか
見捨てたとしても独りの老後は寂しくて、未明に電話しても別れを言えず、自ら命を絶つ父になるのか
あるいはフランクが復活して駅員に暴力を振るうような荒れる団塊老人になるのか

ジョーとフランクの物語は、今ではその両親の目線で団塊の世代からみられる時代なのかもしれない

「いちご白書をもう一度」という歌の内容が本作と似ているのかもしれない

あき240