劇場公開日 1995年8月12日

「限りなく透明な存在でブルー」愛情萬歳 青太さんの映画レビュー(感想・評価)

5.0限りなく透明な存在でブルー

2021年1月22日
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台北の不動産屋で富裕層を相手に働く女性メイ、違法な露天商で日銭を稼ぐアロン、そして納骨棚の営業マンのシャオカン。空き部屋となっている高級マンションの一室での三人の奇妙な交錯を通じて、都会の中の小さな歯車にすぎない、紐帯を失った若者の孤独を描く。

全編を通じて音楽は鳴らず、セリフも最低限に切り詰められているため、くどくどしい説明や分かりやすい感情の誘導は皆無です。ロベール・ブレッソンの白黒映画のような緊張と弛緩。ブレッソンほど感情を削ってはいませんが、僕は近いものを感じました。基調となる色は青で、憂鬱や倦怠感、冷めた感情を印象付けています。そしてみんな煙草をスパスパ吸っていて、孤独を際立たせます。

煙草くさき国語教師が言うときに明日という語はもっともかなし

ベタですが、そんな寺山修司の短歌が思い出されます。

それと同時に性を意識させるシーンも多くハラハラさせられるのですが、その多くがやはり孤独を浮き彫りにしていると思います。

(因みに今は様々な媒体で煙草のシーンは減っているようですが、僕は煙草が出てくる映画が大好きです。最近では、2018年の『ワンスアポンアタイムインハリウッド』の煙草がとても良かった。煙草の燃える乾いた音が、本当に好きです。)

圧巻なのは、シャオカンを演じる李康生です。思いがけずおとずれた、意中の人との二人きりの時間。触れてはいけないが、どうしても触れずにはいられない。恐怖、興奮、愛情、背徳、希望、絶望…様々な感情がアマルガムと化して全身を支配し、その熱で今にも崩れ落ちそうなシャオカンの表情と体。切なすぎて見ていられない。その間、一言も発せられませんが、言葉にならない声が、観る者の心に深く深く突き刺さる壮絶なシーンです。(そういえば、このシーンへと至る前段階のシーンは『パラサイト』でも踏襲されていますね。)

ラストでの、メイの嗚咽の長いカットも同様です。「何でこんなことになっちゃってるんだろう」、「こんなはずじゃなかったのに」。言葉で言うのは簡単ですが、その背後にある膨大な個人史とそこから生まれるあまりに複雑な感情は、とてもじゃないが簡単になんて説明できない。公園の曲がりくねった道を一人カツカツと歩いてゆく姿は、それを表しているかのようです。そして説明不可能な孤独を表現しようとすれば、あのような長尺カットにならざるを得ないのだと思います。

萬歳=viveという言葉は、素晴らしいものを讃え、それがずっと続きますように!という願いを表す言葉です。愛情萬歳、つまり愛は素晴らしい、愛よいつまでも、そんなタイトルを持つこの映画ですが、登場人物の全員が愛から疎外されているという皮肉。愛を求めれば求めるほど遠ざかっていく。愛情萬歳、とシニカルに呟いてみる。そんなわけないじゃん。でも。どこかでまだ信じている。そんな孤独が切なく身につまされます。

説明過多や不必要な感情表現のインフレといった「分かりやすいもの」が巷には溢れていますが、そんなもんで本当に人間を描けるのか。人間はそんなに単純なものなのか。そんな問いを突きつけてくる映画でもあります。

(どうでも良いですが、シャオカンは困った顔がボクシングのノニト・ドネアに似てますね。あと、側転や筋トレのシーンはレオス・カラックス『汚れた血』のアレックスを思い出しました。メイは可憐な欧陽菲菲、アロンは高橋一生をちょっとワイルドにした感じでしょうか。)

青太