劇場公開日 1988年4月16日

「戦争の犠牲者を忘れるな」火垂るの墓(1988) よしたださんの映画レビュー(感想・評価)

1.0戦争の犠牲者を忘れるな

2015年8月15日
PCから投稿
鑑賞方法:TV地上波

泣ける

悲しい

今日は終戦の日。娘が観ているTV放映を、ラストだけ後ろから覗く。
戦争が終わって、蓄音機から華やかな音楽が流れる。若い女性たちが明るい声で「久し振り」と喜んでいる。
これを明るく自由な時代の到来と受け止めていた高校生当時の私。同じ年齢となった娘はどのように思ったのだろうか。
言うまでもなくこの原作は野坂昭如の実体験に基づく小説である。彼は終戦を境にした人々の変容を受け入れがたかったのではなかろうかという気がする。
女たちが自由を謳歌できる時代は、主人公の少年にとっては、肉親をすべて失い、そして尊敬すべき父の命を賭した仕事への名誉も失われるという時代に他ならなかった。
おそらく軍人である父の名誉が失われていくことは、終戦を迎える前から彼には感じられていたことであろう。それは、母を失くした後に身を寄せた先の叔母から、学徒動員で勤労奉仕している自分の子供たちとの対比で「何もしない」となじられることでも感じているはずだ。
なぜなら、彼と妹の節子が叔母の家に身を寄せなければならないのは、彼らの父親が海軍の軍人として戦地に赴いているからに他ならないのに、そのことへの尊敬や同情がなく、厄介者扱いを受けているからだ。
この少年にとって終戦とは、すべての希望を失うことである。たとえ、空襲で人々が逃げ惑う日々が続いたとしても、その隙に火事場泥棒を働いて食料を確保できることのほうがありがたかった。そして、父親の働く連合艦隊が、自分とこの国を守り続けていると信じていられることが、彼の唯一の誇りだったのだ。
戦争が終わったときに喜んだ人々も多い中で、新しい時代に生きる希望を失った者もいることを忘れてはならない。これは、その時の職業や年齢、信じていたものの違いによって異なってくる。
忘れてならないのは、戦争で失われた数多の命が、敗戦によって無意味な犠牲とされてはならないということであろう。その時は、よきことと信じて死を賭けていた者たちが馬鹿を見ることのないようにしてやらねば。
そうでなければ社会には刹那主義、ニヒリズムが蔓延し、共同体のために勤める気持ちが無くなっていくだろう。

佐分 利信