劇場公開日 1997年12月27日

「会話等のチープさが日常感・現実感を奪っているため、まったく怖くないホラー映画」CURE 徒然草枕さんの映画レビュー(感想・評価)

1.0会話等のチープさが日常感・現実感を奪っているため、まったく怖くないホラー映画

2021年12月16日
PCから投稿
鑑賞方法:CS/BS/ケーブル

1)映画の構成
本作は、①社会には周囲に殺意を喚起させ、残忍な方法で人を殺させてしまう「伝道者」なる存在がいるというホラー的側面、②人は誰も奥底に殺意を秘めているという心理的側面を、二重写しに描いた作品である。
世評的には「怖い」映画らしいのだが、小生にはどこが怖いのか、皆目わからなかった。恐らくそれは、全編に漂う安っぽい作り物感、非日常感のためだと思う。

2)何故、この映画は「怖くない」のか
冒頭、精神病院の診察室らしき部屋で診察らしきことが行われるのだが、診察室にしてはだだっ広すぎて、精神病院の雰囲気とか精神病患者の異常性とかがまるで伝わってこない。

殺人と捜索シーンを挟み、「伝道者」の登場となるのだが、萩原と相手の「何処?」「白里海岸」「何処?」「千葉の白里海岸」「白里海岸、それ何処?」「きょう何日?」「2月26日」「ここ何処?」てなバカバカしい会話にウンザリさせられ、日常感覚から遠ざけられる。
こんなバカ、普通の社会は相手にしないさ。同じようなバカげた会話は作中で何度も何度も繰り返され、そのたびに日常感覚、現実感覚からズレていく。

そうした安っぽい作り物感は、白里云々の殺人者が運び込まれる病室には到底見えない「病室」らしき部屋とか、同じく診察室か処置室かわからない部屋で、診察もろくにせずカルテらしきものばかり書いている洞口演じる女医、刑事とコンビで犯人を取り調べる警察の嘱託医等々、全編に満ち溢れている。
そのズレまくった世界で人が殺されるから、それは日常社会、現実の殺人ではなく、ただの作り物の中の「殺人」に転化してしまい、結局、怖くもなんともないのである。

それが意図的だとしたら何のためにという疑念が湧くが、その効果らしきものは見当たらない。そもそも役所と中川の夫婦生活そのものにしたって形だけで、濃密な愛情や倦怠は伝わってこないのだから、あるいは意図的というより日常を描くのが下手なだけかもしれない。

3)人は誰でも殺意を秘めているのか
人間は状況的存在だから、一定の状況におかれれば誰だって人を殺しうると小生は認識している。
戦争や正当防衛などは、ごく分かりやすい一例にすぎない。親殺しはギリシャ神話に出てくるし、夫婦間だって友人間だって、さらには中学生間の殺し合いだってあるではないか。
それが恐らく社会的な常識なのだが、そんなこと語る必要もないから語らないだけで、別にこと新しい認識でもないだろう。
殺意とまではいかなくても、内部に秘めた鬱屈、怒り、憎悪等を開放したいというのは、まさに日常の感覚そのもので、それを社会は「ストレス解消」と呼んでいる。この映画の表題CUREは、それをことさら殺意にまで拡大しているだけの話だ。
つまり、この映画に見える人間の殺意にも、何一つ新しさがない。

4)評価
大きな倉庫のような伝道者の隠れ家シーンなど、いくつか印象的な映像はあるものの、いかんせん伝道者の会話のチープさ、全編の作り物感が災いして、とても高く評価できる作品ではない。

徒然草枕