「神がいない神の物語」もののけ姫 neonrgさんの映画レビュー(感想・評価)
神がいない神の物語
宮崎駿監督の『もののけ姫』をIMAXで初めて全編通して鑑賞しました。
これまで断片的にしか見ていなかったのですが、今回ようやく作品の全体像に触れ、その深さに圧倒されました。
結論から言えば、本作は「神がいない神の物語」、つまり自然の中にある神性の不在と遍在を描いた作品だと思います。
この映画の根底にあるのは、西洋的な「人格神」ではなく、自然そのものが神であるという日本的なアニミズム的感覚です。
シシ神は人間のような顔をした巨大な鹿の姿をとり、森の命を司る存在ですが、それは「審判者」ではなく「自然の理(ことわり)」の具現化です。
神は善悪を判断するのではなく、ただ生命を流転させる。
生きるものを生かし、死ぬものを死なせる。
この冷徹でありながらも穏やかな循環の中にこそ、宮崎の描く“神”が宿っているように感じました。
シシ神が首を失う場面は、作品全体の核心です。
首=「理性」「秩序」「判断」を象徴しており、それを失うことで世界のバランスが崩壊します。
しかしそれは単なる破壊ではなく、神が形を失って世界全体に拡散していく瞬間でもあります。
首を奪うことで神は“個体”から“環境”へと変わり、あの黒い液状の神体が世界に流れ出していく。
つまり「首を失う」とは、神がその秩序の形を超えて、無限に遍在する自然の力へと還ることなのだと思いました。
最終的に人間(アシタカとサン)が首を返すのは、神を蘇らせるためではなく、人間がその秩序を妨げないため。
つまり「人間が自然に委ねる」という行為です。
その後、シシ神が太陽に溶けていき、草木が再び芽吹く。
それは神の復活ではなく、自然の赦しの描写でした。
宮崎はそこで、理性による支配から「委ねる理性」への転換を描いているように感じました。
エボシはこの映画の中で最も複雑な人物です。
彼女は自然を切り開き、鉄を作り、神々と戦う「理性の女王」である一方、売られた女たちを救い、ハンセン病者を保護する「慈悲の母」でもあります。
つまり、慈悲を持つ理性という二重構造を持つ存在です。
エボシは「自然を理解し、制御しようとする人間の知性」の象徴であり、その傲慢さと善意が一体化している。
その意味で、彼女は『風の谷のナウシカ』に登場するクシャナの成熟形でもあります。
理性を極限まで押し進めた人間が、最終的に自然と衝突し、敗北ではなく「調和への譲歩」に至る。
ラストで彼女が「新しい村を作ろう。今度はもっと良い村を」と語るとき、そこには人間の理性が初めて自然の理に身を委ねる姿勢が見えました。
一方のサンは、人間でも狼でもない存在です。
彼女は「人間によって傷つけられた自然の記憶と痛み」の化身であり、森の怒りと悲しみをそのまま体現しています。
その破壊的で衝動的な姿は、理性の外にある“自然の叫び”そのもの。
つまり、サンは自然の“純粋な怒り”ではなく、「人間の罪によって歪められた自然の記憶」なのです。
エボシが“言葉を持つ理性”の代表だとすれば、サンは“言葉を持たない自然”の代表。
観客がサンを「理解しづらい」と感じるのは、彼女が“語ることを拒む側”に置かれているからです。
宮崎はここで、理性が到達できない沈黙の領域――自然の沈黙そのもの――をサンに託しています。
アシタカはその二つの女性的原理――理性のエボシと沈黙のサン――の間に立ち、
どちらかに与するのではなく「関係を取り戻す」ことを選びます。
首を返すという行為は、神を支配することではなく、世界の理に身を委ねること。
その後に訪れる静寂と再生こそ、宮崎が描こうとした「人間の責任のかたち」ではないでしょうか。
ラストでサンは「人間を許さない」と言い、アシタカは「それでも共に生きよう」と応じる。
この不完全な終わり方こそが、自然とのバランスを保つ人間の在り方を示しているように思います。
支配と混沌の間で揺らぎ続けること――それが宮崎駿が描いた“生きること”の本質なのだと感じました。
『もののけ姫』は、理性と自然、男と女、神と人、生と死――
そのすべての境界を問い直す作品です。
そして「神に委ねる」ことでしか見えない、人間の小さな成熟を描いた物語でした。
IMAXでの体験によって、画の密度と音の深さが改めて生命の流れのように感じられ、
まるで森の呼吸の中に取り込まれていくような体験でした。
鑑賞方法: IMAX (4Kリマスター)
評価: 91点
